深川七福神とその界隈・そのA海辺橋と小名木川
元禄二年(1689年)  芭蕉・曽良深川出立
旧暦
新暦
場所
3月27日
5月16日
深川・海辺橋にあった弟子・杉風(さんぷう)の採茶庵から出立する。
深川七福神は、芭蕉が15年の長きにわたって生活した地域とほぼ重なります。俗を捨てて孤独な精神世界の中に沈み込んでいった場所、いわば奥の細道のゆりかごの地でもあります。深川は川の街、そして深川七福神が筋交いのように街の心に芯を通しているような気がします。七福神を回りながら、深川の景色と風情に接することは『奥の細道』を楽しむために有効なことではないかと思っています。私はそのような目でこの街を歩いて見ました。芭蕉はこの深川から奥の細道の旅へと出立するのです。それは元禄二年三月二七日(旧暦)の事です。深川七福神Aでは芭蕉の地を目指して北へと歩みを進めます。そしてそこは藤沢周平の時代物語の場所でもあります。奥の細道を生み出した深川の街に藤沢作品が彩りを加えてくれています。二つの物語が時代を超えてつながっているように思えてなりません。
深川・海辺橋と杉風(さんぷう)・採茶庵

芭蕉が奥の細道に出立したのは、弟子の杉風(さんぷう)の持つ採茶庵です。3次・15年にわたり住んだ地は青い海辺橋より左側に進んだ、小名木川の北側になります。採茶庵の跡地と思われる仙台掘に掛かる海辺橋のたもとには、芭蕉像が清澄通りに面して建っています。後姿を清澄通の風景に入れ込んで眺めて見ると、まるで通りを行き交う現在の深川をじっと見つめている生きた姿に見えてきました。深川の街の生活と風景は奥の細道のゆりかごであったのだとの思いが更に強くなります。

採茶庵跡から仙台掘の川岸に沿って清澄橋までの間に、句が書かれた板が建っています。幾つかをご紹介しました。

藤沢周平作品と深川
富岡八幡発って両国方向に歩を進めます。途中、仙台掘に出て芭蕉が奥の細道の旅 へと出立した海辺橋を渡ります。街中の普通の家の中に混在して建つ寺院を探しながら進みます。町家の中に溶け込んでいるようで目立たない佇まい。やっと潮の香りが僅かにのこる小名木川が見えてきます。速く見たいと、清澄通りまで待ちきれずに一本手前の路地を曲がりこみました。あたりはマンション群が建て巡らされていました。整備された川沿いの遊歩道を歩いて高橋を過ぎて深川稲荷神社へ。そこはかって海辺大工町と呼ばれた場所です。

あっちもこっちも、藤沢周平の時代小説作品の舞台が目白押しです。物語の主人公が頭の中でぐるぐると回っていました。時代物語のお好きな方の参考になればと、蛇足ながら幾つかを書き出してみました(多すぎて書出せませんので)。市井の人々が主人公の物語で、彩と存在感を添える舞台の多くに深川が登場していることは皆様ご存知の事と思います。

海辺橋のたもとで偶然にも近所の商店の人が、道を尋ねた人に教えるのか通りまで出て来て指で指しながら親切に教えている姿を目にしました。私も経験しましたがこの街には藤沢周平作品に出てくるそのような心持が今でも残っているような気がしています。*右の地図の各場所にはリンクが張られていますのでご覧になりたい場所をクリックしてください。2008.2.4

深川が良く出てくる藤沢周平作品の一部
@闇の歯車 殆どが深川の中での話です。酒処“かめや”が蛤町の蜆川傍、主人公の伊之助も黒江町の裏店、首謀者・伊兵衛の住まいが冬木弁天のある冬木町と他の登場人物も殆どが深川になっています。
A橋物語・約束 万年橋で幼馴染のお蝶と幸助が5年後の約束の日に出会います。この万年橋は北斎“富岳三十六景深川万年橋下”や広重の“名所江戸百景深川万年橋”等で錦絵にも描かれています
B霧の果て 神谷玄次郎捕物控 普段怠け者、捕り物では切れ者の同心が係る事件の殆どが深川での事です。
C彫師伊之助捕物覚え・3部作 主人公、元岡引きの伊之助がかって清澄町の親分と言われたことからも分かるように多くの事件が深川でおこります。
 
深川七福神A冬木弁天堂(弁財天)
冬木弁天堂は家並みの中に埋もれるように建っていました。通りまで突き出した看板が無ければ見過ごしてしまいそうです。それでも正月には沢山の参拝客で混雑するのだろうと思います。喧騒の中でのお参り、浮き浮きしてそれも楽しかろうと思いました。

鐘を鳴らすと煩いかと思いましたが、思い切って綱を振りました。撞木が鐘をたたいて、街の喧騒を一時鎮めてくれました。

冬木弁天堂由来

材木商・冬木五郎右門直次が承応3年(1654年)に琵琶湖の竹生島の弁財天を分祀し日本橋茅場町の自宅に祭り、その孫の弥平次がこの地に移したと伝えられる。冬木家はこの冬木町一帯に広大な土地を所有した豪商であった。説明の看板より抜粋

大きな富岡八幡を拝観した後に探し回ったものですから、葛西橋通りに建つこのこじんまりしたお堂は、その落差が大きすぎました。それでも由来を書いた表示板を読んで、長い間の人々の願いや祈りが染み付いたお堂だと理解できました。不遜ながら、それでありがたみも増すというものです。
深川七福神B心行寺(福禄寿)
心行寺の手前にある法乗寺(深川えんまどう)、新しく立て替えられたようで全てが近代的です。
冬木弁天堂のある葛西橋通りを清澄通り方面に進むと深川1丁目の交差点。あたりは寺が密集する一帯。そこを右折両国方面に向かう。新しい法乗寺を過ぎると福禄寿の心行寺

心行寺五重層石塔

空風火水地五層の石塔で元享四年の銘がある。元享四年は1324年で、江東区内に現存するもののうちで最も古い年号を記録している。心行寺の説明看板より抜粋

心行寺(福禄寿)由来

心行寺は双修山養源院と号し、開山は、光蓮社団誉一露屋道で、養源院は開基です。元和2年(1616)に、八丁堀に創建され、嘉永10年(1633)に現在地に移りました。養源院は岩国城主吉川広嘉(1621〜1680)の妻で、承応3年(1654)に没しました。広嘉は岩国藩主として二代目で、延宝元年(1673)には錦帯橋を架橋しています。深川七福神(福禄寿)のひとつとして親しまれています。説明の看板より抜粋

宝篋印咒塔(ほうきょういんじゅとう)北州塚:文化文政の頃江戸の名妓であった川口直が、その夫忠七の菩提を弔うために立てたものである。川口直は、大田蜀山人作詞の清元“北州”に、あの甲高い節付けをしたもので有名で、又墨田村から小梅村の境まで、独力で楓樹を植えた。幕末の頃、その紅葉は向島の名物であった。芸妓をやめて日本橋薬研堀に川口という料亭を開き、後、浅草橋に移って胡麻味噌の石焼豆腐を呼び物にして、非常に繁盛した。夫の忠七は、竹明と号して笛の名手であった。説明の看板より抜粋

仙台掘と海辺橋

清州通りに掛かる海辺橋。千台掘りをまたいだ大きな橋です。側に芭蕉の像があります。
元禄二年(1689年)、この海辺橋近辺にあった弟子杉風(さんぷう)の採茶庵から芭蕉は奥の細道に出立したのでした。有名な奥の細道のでだしの文章は『弥生も末の七日、明ぼのゝ(明け方)空朧々(ろうろう・薄ぼんやり)として、月ハ有あけ(有明の月・空に残る月)にてひかりおさまれる物から、不二の峯幽(かすかに)にみえて、上野谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。』
深川七福神C円珠院(大黒天)
仙台掘を海辺橋で超えて清澄通りを両国方面に進みます。斜めの交差点を右に折れて円珠院へ向かいます。たずね当てた寺がどこか分からずに迷います。

浄心寺参道の看板に円珠院の名を見つけて入っていくも広い境内にそれらしき看板はありません。再度参道を戻り後を振り返ると目的の大黒天・円珠院がありました。通りに建つ説明、浄真寺塔頭の一つだと言う事で理解が出来ました。

円珠院(大黒天)由来:円珠院は日蓮宗で、もとは浄心寺の塔頭のひとつでした。創建の年は不明ですが、開山は義勝院日演(寛保元年1741年没)です。開基の円珠院は、永見重直の娘で、のち長井讃岐守直充の後室となりました。生年は不明ですが享保15年(1730年)12月20日に没し、自ら開いた円珠院に葬られました。深川七福神のひとつ(大黒天)として親しまれています。説明板より抜粋

円珠院から龍光院に向かう道の途中間宮林蔵の墓を見つける。

閻宮林蔵墓説明板抜粋

間宮林蔵は安永9年(1780、一説に安永4年)常陸国(茨城県)筑波郡上平柳村に生まれ、天保15年(1844)に深川蛤町の家で没しました。名は倫宋といい、伊能忠敬に測量を学び寛政十二(1800)年に幕府の蝦夷地御用雇となり、蝦夷(北海道)をはじめとする北地探検と測量に従事しました。

円珠院から龍光院までの道はかなり遠く中々見つからない。途中脇道の奥に看板が見えたので入って見ると、地元の偉人・間宮林蔵の説明看板がある。この看板が在ったのは小さな公園のトイレの前だった。又、来た道に戻ることになる。偉人・有名人達の痕跡が至る所に存在する街に暮らす人々が羨ましくなります。
深川七福神D龍光院(毘沙門)
小名木川・西深川橋

龍光院から小名木川を目指す。早く川を見たくて、高橋の掛かる清澄通りの一本手前で右に曲がる。緩やかな坂の向うに西深川橋が見えてきた。辺りは大きなマンションが立ち並ぶ。人通りも車の通りもまばらな道を小名木川に急ぐ。潮の香りがする小名木川に出てゆっくりと辺りを見回してみました。

龍光院由来 龍光院は浄土宗で、もとは雲光院の搭頭の一つでした。慶長16年(1611)馬喰町(中央区)に創建されました。明暦3年(1657)の大火で全焼したために岩井町(中央区)へ移転しさらに、天和2年(1682)再び消失し、同年現在地へ移りました。深川七福神のひとつ(毘沙門天)として親しまれています。案内板より

円珠院・大黒天から街中の道をかなり歩きました。不安になって途中道を尋ねたら、龍光院はそこから僅かの距離。気をつけていないと見過ごすところでした。屋根に雪が残る寺で頭を垂れました。いよいよ小名木川を目指します。

龍光院から小名木川に向かう途中、雲行寺の前に阿茶局の墓という石碑を見つける。徳川家康の側室として、大阪冬の陣、夏の陣での和睦の使者として活躍したとの事です。雲行寺は阿茶局が開基だそうです。

雪の残る川沿いの遊歩道を高橋(たかばし)に向かう。高橋の向うには富士山に代わり大きなビルが見える。物語に幾度も登場する小名木川と高橋に出会って感激する。

深川七福神E深川稲荷神社(布袋尊)
深川稲荷神社(布袋尊)由来深川稲荷神社は、寛永7年(1630)の創建と伝えられています。以前は、旧町名の西大工町にちなんで俗に西大稲荷と呼ばれていました。関東大震災(1923)の後の区画整理により町名が変更し、昭和27年頃から深川稲荷神社となりました。深川七福神のひとつ(布袋尊)として親しまれています案内板より
深川稲荷神社横の碑文、深川2丁目町内会とある。元禄の頃は海辺新田と言われ、小名木川の河港として栄え、深川海辺大工町とも称されたと記載されています。度々小説に登場する海辺大工町の名前を見て、沢山の物語の主人公が浮かんできました。昭和の大横綱・大鵬の名前、寄贈した石柵に刻まれていました。小名木川を越えて最後の深川神明宮に向かいます。
9/23/2008

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霊巌寺芭蕉の地万年橋小名木川へ富岡八幡宮