関の細道・白河城(小峰城)
芭蕉と曽良は白河の古関の跡と思われる白河神社に参った後、旧鎌倉街道を辿って関山へと向かいます。残念ながら芭蕉と曽良には古関跡の確証が得られなかったようです。

関山を登った芭蕉は、石川街道か棚倉街道に出て、白河城下に入っていったのでしょう。白河城下の中町を訪ねた道からは当時は大きな小峰城が芭蕉の目に入ったと思われます。中町から再度、奥州街道を経て、阿武隈川を渡り「女石」へと出ます。

白河城(小峰城とも呼ばれる)は1590年(天正18年)8月から1627年(嘉永4年)4月までの間、会津藩の支城としてその支配をうけていました。蒲生氏郷から蒲生秀行と二代の蒲生家の統治が続き、1598年3月頃から1600年慶長5年、この戦いのときまでは会津藩主・上杉景勝の所領でした。密謀はこの時期を題材としたものです。この地では上杉と徳川の戦いは実際には勃発しなかったので、戊辰戦争の記憶が今でも強く残っているようです。

小峰城には大変親切なボランテイアの歴史案内人の方が数人居ます。私も熱心に尋ねましたが、その案内の方もそれに増した熱意で教えてくれました。この文章もその方からいただいた書類を参考にしています。この地を来訪する時は地元の親切な案内人の方にお話を聞く機会をもたれると楽しい経験になると思います。傍観者で居るわけには行かなかった当事者達の子孫の人の話は軽くはありません、胸を打たれます。ボランテイア案内の依頼については白河観光協会 0248-22-1147にお尋ね下さい。

白河の地は会津街道と奥州街道の要となります。この白河城は白川結城家5代目の当主結城親朝(ちかとも)によって約660年前にその基礎がきずかれました。このような城郭としての城は1632年丹羽長重によって建築されています。松平定信は1783年〜1823年まで白河小峰城の領主を勤めました。戊辰戦争で消失し、近年天守閣、前御門が当時の絵図に基づいて正確に再現されました。天守閣の板には戊辰戦争の激戦地の杉が使われており、当時の弾がしっかりと食い込んでいます。

ある正月の小峰城、子供では腰近くまで雪に埋もれてしまいました。城まで行き着く事が出来ず引き返さざるを得ませんでした。

小峰城の横に藩祖の結城家と最後の領主である阿部家の古文書や貴重な文物が保管展示されている白河集古苑があります。その前に、発掘された大手門の説明看板がたっていました。観覧料金大人¥310 小中学生¥100。ちなみに白河小峰城の天守閣は無料だったと思います。
小峰城にある戊辰戦争の絵図、これに拠れば連合諸藩と激しい市街戦が行われています。市民に犠牲者が出たことは十分有り得たと思いました。この地の人々は戦死者を敵味方無く手厚く葬ったようです。案内人の方に城の脇には薩摩藩士の墓があるから連れて行ってあげると言われましたが、今回は時間がないのでと丁重に遠慮しました。
もう一つの白川城(搦目城(からめじょう)
この白川城は小峰城の案内の方に聞きました。白河藩の始祖である結城朝光が1189年、藤原氏討伐の功でこの地の領主となって建設された城だそうです。今はわずかな遺構がが残るだけの里山に変わっています。小峰城の東、市内を流れる谷津田川(やんたがわ)ほとりにあります。この川は阿武隈川の支流で市内を縦断する清流です。今では南北朝時代に活躍した結城家の姿は、松平定信の影に隠れしまって居るようです。
結城朝光が造った城は”白川城”と呼ばれて、白河小峰城と区別されています
砦の上には記念の石碑が建っている以外それを示す遺構は見られない。藩祖の生まれた結城市の人々が白河とのつながりを記念して桜を植えてありました。伊達の藩祖も結城の近くで(たしか中村と言ったと思います)あったと小峰城の案内人の人が教えてくれました。
木々の切れ目から白河の市内がしっかり見渡せます。思いました。兼続ならこの山城に兵を忍ばせたかもしれないと。秋の日暮れは早いので、直ぐに次の訪問地関山に向かいました。
9/16/2008