この日、今年何度目かの日光は雨、それでも外国からの観光客を含めて日光山内は混雑しています。大横町の駐車場に車を止めて、大谷川に掛る日光橋を信号で渡ると正面に人影のない坂道が右へと上がって行きます。ふと引き込まれてしまいました。今まで一度も訪れた事のない本宮(ほんぐう)神社です。辺りの喧騒から離れて社殿で手を合わせます。人ごみの東照宮は外から眺めただけで二荒山神社へと向かいました。二荒山神社の山門から神社を望みます。2010,06.14
4月2日
卯月朔日(四月一日)、御山(日光山)に詣拝す。往昔、此御山を「二荒山」と書しを、空海大師開基の時(弘法大師空海の伝承もあるが勝道・しょうどう・上人の開基)、「日光」と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや、今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒(おんだたくはっこう・恵みが国中に)にあふれ、四民安堵の栖(すみか)穏なり。猶、憚多くて筆をさし置ぬ。 あらたうと青葉若葉の日の光 黒髪山(二荒山神社奥の院の男体山)は霞かゝりて、雪いまだ白し。 剃捨て黒髪山に衣更 曽良 曽良は河合氏にして惣五郎と云へり。芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水(台所仕事)の労をたすく。このたび松しま・象潟の眺共にせん事を悦び、且は羈旅(きりょ・旅の意)の難をいたわらんと、旅立暁(たびたつあかつき)髪を剃て墨染にさまをかえ、惣五を改て宗悟とす。仍(よっ)て黒髪山の句有。「衣更」の二字、力ありてきこゆ。
日光山開山の勝道上人がこの地に(幾度かの移動の後)男体山を祀ったのが日光の始まりと言われる古い神社。後に二荒山神社を新たに造営し男体山(二荒山)の神を祀り、この本宮神社には太郎山を祀る。その為、現二荒山神社を本来からの本宮神社に対して新宮とも呼ぶ。尚、女峰山を祀る滝尾神社と上記二社を合わせて「日光三社権現」と呼ぶ。ご存知のように日光東照宮は江戸時代に入り徳川家康を祀る為に二荒山神社の神域に隣接して創建されたものです。以後二荒山神社は幕府の庇護を受け幕府は二荒山神社の権威を取り入れたと云う事だと理解して良いのではないかと思っています。2010,06.14
左に入る通りが大横町の裏通り・右が日光街道。その間の角地に天海大僧正の像が建つ。大谷川を背にして撮影。
本宮神社の参道から国道120号線を望む。右に大谷川に掛る赤い神橋が見えます。右は裏見の滝・華厳の滝・中禅寺方面。左は日光橋を渡って今市方面になります。
曽良旅日記:日光山参拝 一 四月朔日 前夜ヨリ小雨降。辰上刻、宿ヲ出。止テハ折々小雨ス。終日雲、日光ヘ着。雨止。清水寺(江戸のせいすいじ)ノ書、養源院(大楽院の付属寺院)ヘ届。大楽院(東照宮御別所・社務所・地図参照)ヘ使僧ヲ被添。折節大楽院客有之、未ノ下剋迄待テ御宮拝見。終テ其夜日光鉢石町五左衛門ト云者ノ方ニ宿。壱五弐四。
曽良旅日記:日光山参拝
一 四月朔日 前夜ヨリ小雨降。辰上刻、宿ヲ出。止テハ折々小雨ス。終日雲、日光ヘ着。雨止。清水寺(江戸のせいすいじ)ノ書、養源院(大楽院の付属寺院)ヘ届。大楽院(東照宮御別所・社務所・地図参照)ヘ使僧ヲ被添。折節大楽院客有之、未ノ下剋迄待テ御宮拝見。終テ其夜日光鉢石町五左衛門ト云者ノ方ニ宿。壱五弐四。
三仏堂に近づくほどににわかに観光客が多くなってきました。芭蕉が訪れた当時の家康の霊廟と云う厳かな精神世界を望むべくもありませんが、とても芭蕉と曽良の思いを感じようとしてもあたりの喧騒が邪魔をします。*芭蕉が日光山を訪れた様子は私の愛読する参考書の内容をご参照ください。
曽良の旅日記によると,江戸・清水(せんすい)寺から紹介された水戸家由来の小寺院・養源院が東照宮拝観の手助けをしてくれた。当時、東照宮では大修理が行われており、当日も午前中から作業の為幕府御用絵師・狩野探信が門人一同と訪れていた。そのため芭蕉と曽良は午後2時頃まで待たされたらしい。
奥の細道で「黒髪山(二荒山神社奥の院の男体山)は霞かゝりて、雪いまだ白し」と述べた黒髪山(男体山)を御神体として祀る二荒山神社です。日光山内でも東照宮に比べると幾分静寂が保たれた空間が広がります。今日は雨空、空に何も見る事はできません。男体山は日光市内からはかなり広い地域で見られるのですが果してこの森の中から見えるのでしょうか。2010,06.14
神門の際に御神木の3本の杉が見えます。巨大な幹の太さなどから芭蕉が見上げた杉なのではないかと想像してしまいました。もしそうであるなら、3本の杉は間違いなく芭蕉と曽良を見たに違いありません。