奥の細道をたずねて 会津根の細道A須賀川・相良等窮
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かげ沼から須賀川へ
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市内に入ると右に須賀川警察 が出てきます、次が市役所です。市役所の駐車場に車を入れて、一角にある芭蕉記念館を訪ねます。今回は記念館の周囲にある相良等窮由来の場所を訪ねてみます。市役所までは、JR東北線須賀川駅からは1.5キロほど離れていますので歩くにはかなり遠い距離になります。
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元禄二年(1689年)
芭蕉・曽良須賀川滞在表
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旧暦
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新暦
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場所
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4月22日 |
6月9日 |
矢吹よりかげ沼を経て須賀川へ向かう。乍単斎(等窮)宿。 |
4月23日 |
6月10日 |
夕方、可伸を訪ねる。近所の寺院を拝する。 |
4月24日 |
6月11日 |
等窮宅田植え、午後可伸宅で歌仙を巻き蕎麦切を食す |
4月25日 |
6月12日 |
等窮物忌の日 |
4月26日 |
6月13日 |
雨が降る |
4月27日 |
6月14日 |
須賀川の俳人達と芹沢の滝を訪れる |
4月28日 |
6月15日 |
十念寺と諏訪明神参拝 |
4月29日 |
6月16日 |
須賀川を馬で発ち乙字ケ滝へ向かう |
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かげ沼から芭蕉と曽良は須賀川に向かいます。須賀川では俳人である友、相良等窮を訪ねて7泊の長きにわたって滞在します(ここにも奥の細道の4、5日と事実とは異なる記述が見られます)。かげ沼から4号線に戻ります。国道4号線を須賀川に向かって北上、大黒町の交差点に市役所の道路標識があります。そこが118号線との交差点、そこを右折して市役所に向かいます。 |
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相楽等窮の呼称について:相楽等躬は須賀川駅長なども勤め、市井の生活では通称・相楽伊左衛門と呼ばれていました。俳人としての等躬は俳号・等躬(窮)、乍単斎、藤躬とも称しています。奥の細道の中で芭蕉は等窮と記しています。ここでも芭蕉にならい等窮としています。 2008.5.21
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(本文)すか川の駅に等窮といふものをたずねて、四、五日とゞめらる。先(まず)白河の関いかにこえつるにやと問(とふ)。長途(ちょうど)のくるしみ、身心(しんじん)つかれ、且は風景に魂うバゝれ(古の歌に歌われた美しい景色に心を奪われ)、懐旧に腸を断て(はらわたをたちて・腸がちぎれるほど感動して)、はかばかしうおもひめぐらさず。
風流の初やおくの田植うた
無下にこえむもさすがにと語れば、脇、第三とつゞけて、三巻となしぬ。
此宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有。橡ひろふ太山(とちひろうみやまも・西行が歌に詠んだ深山もかくやと)もかくやと、しづかに覚られて、ものに書付侍ル(かきつけはべる)。其詞(そのことば)、栗といふ文字は西の木と書て、西方浄土に便ありと、行基菩薩の、一生、杖にも柱にも、此木を用給(もちいたま)ふとかや。 世の人の見付ぬ花や軒の栗
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市役所の横に芭蕉記念館があります。市役所の駐車場に車を止めて尋ねると文芸員の方が親切に教えてくれます。上の写真の”芭蕉と須賀川”のパンフレットが貰えます。 |
芭蕉記念館の前に古い家があります。中を覗くと蔵が幾つもある様子でした。後ろにアンテナが見える辺りが芭蕉が滞在した相良等窮宅跡。 |
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市役所の近くには(5〜6分)相良等窮の旧宅跡と軒の栗・可伸庵の跡があります。案内板にそって歩くと幾つかの古い家が見られます。ガランドウの観光用ではありません。芭蕉を迎えた人々の子孫が守ってきた生きた町並です。芭蕉が歩いたであろう通りに立つと芭蕉の息吹を感じます。路地があり古い家並みと新しい家が混在しています。これこそが活きた町です。 |
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感じの良い路地を進んでいくと栗の木が立つ一角に出ます。僧が隠遁するとしても随分と狭い場所だと思いました。
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相良等窮宅の横に(多分、広い等窮宅の敷地内の一角でしょうか)栗の木の下の庵に隠棲する僧・可伸が居たことを書き残しています。ここは軒の栗とも称されるその庵の跡です。相良家寄贈の4代目の栗の木が植えられています。
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新しく立てられた奥の細道の石碑です。軒の栗の芭蕉の文章”此宿の傍”に”が彫り込まれています。
実在する古い友人の”等躬”を”等窮”と記しているように、”奥の細道”は在るがままを記録したものではないことに注意しないといけないと思いました。
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世の人の見付ぬ花や
軒の栗
文政八年(1825)に立てられた歌碑です。軒の栗の敷地内の左側に立っています。当時の地方に住まう人々の一部に、高い文化的素養が在った事に奥の細道の跡を辿ると分かります。当時の文化的教養を日常的にたしなんでいた武士階級以外にも広がっていることは、町人の力の高まりの現れでしょうか。芭蕉のおとづれる地では、俳句を通して身分を越えたつ ながりがが見られます。時として女性も居ることは私には驚きです。封建時代の身分社会が、融通無碍で緩やかな面を含んでいた事が理解出来ます。
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芭蕉は6月10日に可伸を訪ねた後も、須賀川滞在中も何度か訪れています。可伸は俳人で号を栗斎と称していました。僧形の者ではあったが、本来の意味の僧ではなかったと言われています。
翌11日、等窮宅は田植えで多忙を極める。芭蕉と曽良は午後から可伸の庵を訪ね、須賀川在の俳人たちと歌仙を巻いた(簡略に言えば連句の句会)。『隠家やただぬ花を軒の栗』と読む。可伸の家では寂しげな栗の花が房になって咲いていました。
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 軒の栗庭園を左に曲がるとNTTがあります。そこに相良等窮宅跡の標識がありました。非常に広大な面積です。
各地に住む資産家や地方の武家が高い教養を持ち、江戸の文化に強い憧れをいだいていた事に思いがいきます。そして、相良等窮が息づくこの地に立つと、那須の二宿の宿の高久覚左衛門を思い出さずにはいられません。ほぼ、同じ役割を果たしたことになります。芭蕉の旅はこのような資産家階級の人々の存在があって初めて実りあるものとなったのでしょう。
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等窮旧宅跡から、近くの長松院を訪ねてみます。ここには相良等窮のお墓と句碑があるとの事です。ただ、私の訪ねた日は大きな葬儀が行われており、見学を躊躇してしまいました。
狭い境内の入り口から中をうかがってから、受付に居る人におずおずと、相良等窮のお墓を見に行っても良いかと聞いてみました。了解を得てから急いで葬儀の列を迂回して本堂の裏手に回りました。
裏手に回ったらあちらこちらに入り口があってかなり大きなお寺でした。
等窮の説明板に78才、1715年に平で客死とありました。等窮の句碑があるそうですがなにか葬儀の邪魔をしてはと探すことをしませんでした。
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鐘楼の辺りが長松院、このような花輪が囲むように飾られています。お寺では大きな葬儀が行われているようで、沢山の人々が出入りをしていました。門前を行きつ戻りつしました。 |
長松院本堂の裏に等窮の墓地がありますが、その途中、鎌倉時代二階堂氏によって築かれた須賀川城の遺構がありました。1448年二階堂為氏によって整備され、1589年伊達政宗に攻撃され落城するまで須賀川の旧市街地一帯に存在したとの説明板がありました。これは土塁と空堀の遺構です。 |
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市役所の横にある無料の資料館です。私も何気なく訪れてみましたが、学芸員の方が順路を親切に教えてくれてました。パンフレット類の内容も充実しており大変有意義な訪問でした。えてしてこのような場合、物産販売や芭蕉を使っての町興しの魂胆が透けて見える場合が少なくありません。それは仕方のない面もあることを重々承知していても、控えめであるならば旅の楽しさを損なうことがないのではと思うのです。須賀川は押し付けがましさがなく、芭蕉の姿を思い浮かべることが出来た大変意義深い奥の細道をたどる旅を楽しめました。須賀川に芭蕉の跡を辿るときにはこの記念館を最初の訪問地に選ぶことをお勧めいたします。 |
記念館では上の写真のパンフレットが貰えます。須賀川のでの芭蕉の足跡が詳細に記された楽しい地図付き資料です。*私も参考資料として使用させて貰った事を記しておきます。町歩きには右上の地図を貰うと大変便利です。 |
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順路:須賀川市@JR東北線須賀川駅からバスで約10分。中町八幡町下車A東北道須賀川インターから約10分(市役所駐車場に止められます) 住所:須賀川市八幡町136・0248−72−1212 その他:月曜休館・午前10〜午後5時・入場無料 |
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9/19/2008 |
本日-
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昨日-
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