奥の細道をたずねて会津根の細道@かげ沼

芭蕉と曽良は阿武隈川を越えて矢吹に向かいます。現在の矢吹には当時の面影を残すものはほとんど見られません。これも生きている町の常で、住み暮らす人々が時代に合わせて、壊し建替えていくのですから仕方のないことです。私は残された道を辿りながら、この同じ道の上を芭蕉と曽良が歩いて行った事を強く意識することで、この旅物語・奥の細道が全く風景の変わってしまった現在に蘇る気がしています。錯覚であってもそう思いながら旅をしてみようと思うのです。単なる物語として読むだけにとどまらず、共に旅する気持ちでいます。
今回は、奥の細道の本文”かくして”から”物陰うつらず”までに記述した場所にあたります。この田圃の風景はかげ沼がある一帯で昔は湿地帯であったようです。山なみは会津方面です。かげ沼は左の手前側にあります。普通はこの文章は須賀川に分類されていますが、白河を出て矢吹・鏡石への行程が含まれています。私には幾つかの想像を楽しみたい文章ですので別に取り出して書いてあります。このあとに須賀川の文章が続くことになります。2008.5.28

(本文)かくして越行(こえゆく)まゝに、あぶくま川を渡る。左りに会津根(あいずね・磐梯山)高く、右に岩城(いわき)、相馬、三春の庄、常陸、下野の地をさかひて、山つらなる。かげ沼と云所(いふところ)を行(ゆく)に、けふは空曇りて、物影うつらず。

現在のかげ沼は周りを田圃にかこまれ、小さくなってしまっています。 一帯で逃げ水(蜃気楼のような)現象が見られたという言い伝えが想像も出来ないほどの可愛らしい大きさです。村には優れた物語の作者にあふれています。私はこの伝承の真実性をあれこれ検証せずに、物語の一つとして聞いておこうと思っています。曇り空ながら今日は池の端の木の陰が水面に映っています

矢吹町・鏡石町かげ沼地図
元禄二年(1689年) 

芭蕉・曽良白河滞在表

旧暦
新暦
場所
4月21日
6月8日
白河城下の中町から阿武隈川を渡る。矢吹に泊まる。
4月22日 6月9日 矢吹よりかげ沼を経て須賀川へ向かう。
地図上の赤い線は芭蕉が通ったのでは推測した通り道です。

芭蕉の文章に限ると”奥の細道”に記述した場所は下記のように想像できます。これはこの地を何度か通った者の感覚で読み解いた印象ですので、間違っているかもしれません。*案の定素人の貧弱な知識でした、幾つかの誤りがありました。お詫びすると共に誤りに基づいて加筆・訂正させていただきます。

記述した場所にこだわるのは、芭蕉が立った同じ地面に立って同じ景色を見ることで、文章を通して心の交流を試みて見たいと思うからです。人も町も家並みも当時のものではありません、山や川だけが当時とほぼ同じ姿をとどめています。能因法師や西行やもろもろの文学的な教養がこの奥の細道に込めれていることは分かっていても、際限なくそれをほじくりたいとは思いません。私の能力では芭蕉への焦点がぼやけてしまうだけです。素直に芭蕉の文章を読み、芭蕉が歩いた道を辿る事にしたいと思っています。

@ “左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野”は矢吹町から須賀川への道中の事を述べていると思います。直ぐかげ沼(場所には諸説があっても矢吹町から北になります)の話が出てくること、山がこれほどはっきりと見えるのはかげ沼の辺りになります。当然磐梯山をより大きく見るには北に向かう必要があります。かげ沼との関連性・平地が続き見晴らしが良い等から矢吹の大池から鏡石の久来石(きゅうらいし)近辺の景色ではないかと思っています。かげ沼の場所については諸説があります。それが広い地域を指すとしても、この辺りには数多くの大小の沼が点在している地域でもありますので少なくてもこの近辺が妥当かと思っています。因みに白河から矢吹の間は、山があって芭蕉が書き残すほど見る事は出来ません(奥の細道のこの部分に創作があったら別ですが)。

A 以上の事からこの記述は、白河で阿武隈川を渡る→矢吹・鏡石近辺での山なみ→鏡石のかげ沼→須賀川への事を書いたのであろうと思います。矢吹での宿泊については奥の細道には記述がありません、曽良の旅日記に記録が残るのみです。

かくして越行(こえゆく)まゝに、あぶくま川を渡る”の部分について、俳句の知識の乏しい私は阿武隈川を渡るたびに、何故阿武隈川の記述があるのかと言う謎にとらわれてしまっています。

奥の細道を世に出すまでに、旅で書き連ねた文章を推敲に推敲を重ねて、多くをそぎ落としているに違いありません。削り落としそぎ落とし一語に100の思いを込めた文章であろうと思うのです。その折には芭蕉の文学的的企みが込められていることは当然のことだと思います。そぎ落とした奥の細道に何の変哲もない阿武隈川を書き残した事が極めて不思議な気がしているのです。多分、識者の方が見れば笑止な事でしょうがただ流れる阿武隈川を渡るたび(日光・大谷川が合流する鬼怒川・大渡りと対比して)にその思いがするのです。

芭蕉にとって奥州への一つ目の心の垣根が隔てる山なみであり、やっとそれを越えて目にした阿武隈川は奥州への最後の垣根、向こう岸だったのでと言うの事なのでしょうか。利根川(鬼怒川)も那珂川もその記述が奥の細道には見られません。特に、芭蕉が日光から那須野が原へ向かう日光北街道の鬼怒川写真)の強い流れと変化に富んだ景色は阿武隈川の非ではありません。そして大渡りは(そこで越えたか少なくてもかすめて通るのです)、芭蕉が日光で訪れた大谷(だいや)川との合流点にあたり、大河の趣の強いところです。その様子を知るだけに、推敲を重ねた奥の細道に変哲もな阿武隈川を選択し、鬼怒川の記述が無い事がとても不思議な気がしています。歌枕の地であったからの記載なのでしょうか。@岩波書店・奥の細道(萩原恭男校注)に、江戸時代の奥の細道解説書(蓑笠庵利一)に、新古今集(1201〜1216)のあぶくまがわの古歌が載っている事を書いています。A講談社学術文庫・おくのほそ道全注釈(久富哲雄)にあぶくまがわが歌枕であると記載されていました。

この写真は鬼怒川の大渡(おおわたり)です。手前左上に芭蕉が日光で訪れた、裏見の滝・含満が淵の大谷(だいや)川が合流してきます。つまり誰でも何らかの思いを抱くであろう、神域から流れ下った大谷川終焉の地になるのです。少し右に現在の大渡橋(おおわたりばし)があります。

芭蕉が白河の関で旅心が定まったと述べますが、それは自らに言い聞かせた覚悟のような気がするのです。旗宿で一夜を過ごし白河城下を歩き、この阿武隈川を越えて本当に引き返せない場所、まさに彼岸に来たと、覚悟が実感となりここで本当に心を定めたのではないかとかんしているのです。阿武隈川は芭蕉にとってそういう川ではなかったのでしょうか。

続いて雄大な山の連なりを記してこれからたどる未知の奥州路への旅の困難さを強調しているように私には思えるのです。この地から三春の地を語るのは妥当ですが、未だ見ぬ相馬の地(それこそ三春の山なみが遮る更に先です)は一緒に語るには余りも遠すぎる気がするのです。江戸の風が感じられる地から隔たる異なる場所に来たという事を強調して、これからの物語の山場を,企てたように思うのです。この部分の江戸時代の解説書では”めいしょにてはなし”と書いています。芭蕉が単に名所巡りを企ててその紀行文を書いたわけではないのですから、芭蕉が何故そんな変哲もない場所を書いたかと言う心持を忖度してこその解説書ではないかと感じてしまいました。

変哲も無くただ流れる阿武隈川を渡りながら何時も抱く疑問をこう納得させています。ただ、一方でとんでもない思い違いをしているかも知れないという恐れもいただいて居るのです。これは貧弱な知識しか有しない単なる一読者が、物語のあれこれにいろいろな想像を楽しんでいるということでご容赦ください。間違いが分かり次第訂正をいたしたいと思います。

白河から矢吹へ

@芭蕉は白河から左に小峰城を望みながら阿武隈川を渡り矢吹に向かいます。羅漢山の坂を越えて会津街道が分岐する女石(おんないし)に出ます。この道は新道で古い道は北側にあるようです。現在は4号線の大きな交差点となっています。ここを右折して4号線を北上、旧道は4号線を左に右に渡りかえし途切れながら続いています。

芭蕉は写真の田町大橋の右から左方向へと越えました。 右の写真の阿武隈川の左に小峰城、雨に隠れています。 田町大橋から羅漢山の山すそを巻く坂道を越えると4号線の女石にでます。右に須賀川方面。これは新しい道で、旧道はこの南側にあるようです。

この日、台風の影響で前夜からの大雨。阿武隈川の表情は一変して、激流が流れています。田町大橋の右が白河の関方面、芭蕉は左・泉崎村を経て矢吹方面に向かいます。芭蕉と曽良は登り下りの連続する道から開放されることになります。

A泉崎村に入り右に道がカーブする登りの頂点にのある三ツ屋前の信号交差点があります。左に食堂、交差点には右折のレーンが設けられています。ここを右に入ると旧道となりやがて矢吹町の中心街を通り過ぎた先で再度4号線に交差します。どうも矢吹町には芭蕉の面影をしのぶものが少ないようですが、それでも私は躊躇無く右に旧道へと入りました。白河藩主・松平定信が整備した松並木が切れ切れに続きます。勿論、定信は芭蕉の後に生まれた人です。通勤時間帯を外れた時間ですので、旧道は今の時間、車も殆どとおりません

A:旧道に入ると直ぐに古い十三夜供養塔や馬頭観音が建つ社があります。

このような石塔を見ると、人々の願いが宿っていることを感じます。

C:山王寺:(矢吹町大和内89)矢吹インターに続く交差点を過ぎるとカーブの下り坂となる。下りたところにある小さな寺です。承応元年1652年1月14日の建立と看板にありました。芭蕉がこの前を通っていることになります。
B:五本松:街道は松の並木が続く。松食い虫の影響か切られた松の根が見られる。松が道に風景を作り出して、旧街道の面影を残しています。
踏瀬松並木:途中美しい松並木が現れる。松平定信が植えつけたとの事。定信より後世の芭蕉が見ることはありませんでした。通勤時間帯を外れた今、旧街道を通る車は殆どありません。芭蕉の時代より静寂な道かもしれません。
D:矢吹の宿の推測地:途中かなりの旧坂のカーブを下るとJR東北線矢吹駅の交差点にでます。この辺りが旧市街の中心であったようで、芭蕉の泊まった宿のあったのもこの辺りではなかったのでしょうか。
矢吹から鏡石町のかげ沼(鏡沼)

鏡沼跡(かげ沼)住所:福島県岩瀬郡鏡石町鏡田かげ沼町。B矢吹の旧道を更に北に進むと4号線に斜め交わる北町の交差点にぶつかります。右・福島方面に進むと芭蕉の言う、左にあいず根・右に三春の庄を隔てる峰々が広がる道になります。鏡石町に入り左に東北道鏡石パーキング・エリア・スマートICの入り口看板がある交差点が出てきます。そこから僅かの距離で小さな信号の有る交差点の左にかげ沼の標識(左角は設備屋さんだったと思います・右側には西行寺の小さな標識)があります。そこを左折して東北道をくぐります。ひろがる田圃の向こうに会津の山なみが広がって居ます。当時はかなり広い湿地帯であったのかもしれません。暫く進むと左にかげ沼入り口の看板があります。田圃の中の道を500〜600進むと公園を兼ねたかげ沼が出てきます。案内板にはこの地がかげ沼と称されていた事の一つの歴史的証明の説明板がありました。

   

かげ沼の場所については諸説があっても、地元の人々の蓄積した言い伝えに信を置きたいと思います。前日は白河の関から白河城下を経て矢吹町、この日も矢吹町から須賀川に向かうだけで、芭蕉には時間的に余裕のある行程です。道からかなり離れていても(訪れたとしたら斜めに入る近道をたどったとは思いますが)訪ねて見ようと思ったような気がしています。訪ねる須賀川の相良等窮宅までは僅かな行程です。沼の脇には新しく立てられた芭蕉と曽良の石像があります。2008.05.20

この図は、天保13年(1842年)分家東常松の常松菊田圭が鎌倉時代の悲劇の武将で、当地方に流された和田平太胤長夫妻の顕彰として編纂したΓ磨光編」の挿図を羅漢に依頼して作成されたものです。 和田平太胤長夫妻にまつわる伝説の地である鏡沼・化粧原・平太仏などを入れて描かれたもので、墨摺の木版図です。蒲生羅漢(1784年~1866年)
画家蒲生羅漢は、白河小峰城下に生まれ、83歳で没した郷土の画家で、現福島県域での数少なぃ谷受鑓の高弟の1人でした。

説明板より抜粋

これは上の写真の看板の他に立っていた、もう一つの看板です。芭蕉が蜃気楼という噂話を知っていたような書き方です。真実かどうかは私には分かりません。

私には、どうして芭蕉が白河の宗祇戻しから(石川街道から東山道を通って)鹿島神社転寝の森、忘れずの山などを通って須賀川に出なかったかという疑問が残るのです。白河市が作った境の明神の地図参照まわりみちと表記されたルートです。

曽良の旅日記にはこれらの地への書き込みがあります、事前に知っていたのです(多分、出来れば訪れたい思っていたのでしょう)。白河城下の中町に立ち寄る必要があったとしても、石川街道に出るのが大きな回り道とは思えません。矢吹やかげ沼が芭蕉をひきつける歌枕の地とも思えないのです。歌枕としてなら古い東山道の道こそふさわしいものではないでしょうか。そして芭蕉が憧れた、白河の古関に連なる道としても東山道を選ぶのではないかと思うのです。

そうしなかった理由が、かげ沼の逃げ水への興味だったのではと、恐る恐る想像しているのです。晴れていさえすれば”ものかげ”がうつると言わんばかりの文章のように感じるのです。 私ならそうしたであろうにと前から思っていました。この小さなかげ沼を見ていると(その当時は一帯が広い湿地帯であったとしても)、蜃気楼の話が当時噂としてかなり広まっていたのでしょうか。暫くその謎を考える楽しみが出てきました。

かげ沼へ)2008年5月20日:台風の影響で前夜からの大雨。外での作業が出来そうにもないと見切りをつけて、奥の細道をさらに北へと辿って見ようと思いました。深川の地で、芭蕉の住んだ隅田川の景色に惹きつけられた事がきっかけで、気軽に那須から白河を尋ねた事が始まりです。奥の細道をたどり、芭蕉の姿を思い描く旅がこれほど心を充足させてくれる楽しい旅になるとは思ってもみませんでした。その深い楽しさが止みがたくなり、更にその辿った道を先まで歩いて見たという衝動が抑えがたくなってしまいました。

傘を差しかけながらの今回の芭蕉との旅は、本文の通り阿武隈川を渡ることから始まります。大雨で猛り狂う川の流れ、常ならざる姿です。昼食は旅の途中の泉崎村”うお政”で次にはと決めていた海鮮どんぶり¥950を食べました。ご主人に乙字が滝や須賀川の様子を教えて貰ったことは幸運でした。更に、白河の関から東山道がここまで来ている事も教えて貰い、次には義経も通った旧道から訪れてみようと思いました。

城下町の雰囲気が残る須賀川の町も大変良い町でした。押し付けがましくなく、聞くことにはちゃんと教えてくれるたいへん親切な対応は今回の旅で強い印象を残してくれました。かげ沼をから須賀川に向かいます。

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9/19/2008

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