芭蕉の文章に限ると”奥の細道”に記述した場所は下記のように想像できます。これはこの地を何度か通った者の感覚で読み解いた印象ですので、間違っているかもしれません。*案の定素人の貧弱な知識でした、幾つかの誤りがありました。お詫びすると共に誤りに基づいて加筆・訂正させていただきます。
記述した場所にこだわるのは、芭蕉が立った同じ地面に立って同じ景色を見ることで、文章を通して心の交流を試みて見たいと思うからです。人も町も家並みも当時のものではありません、山や川だけが当時とほぼ同じ姿をとどめています。能因法師や西行やもろもろの文学的な教養がこの奥の細道に込めれていることは分かっていても、際限なくそれをほじくりたいとは思いません。私の能力では芭蕉への焦点がぼやけてしまうだけです。素直に芭蕉の文章を読み、芭蕉が歩いた道を辿る事にしたいと思っています。
@ “左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野”は矢吹町から須賀川への道中の事を述べていると思います。直ぐかげ沼(場所には諸説があっても矢吹町から北になります)の話が出てくること、山がこれほどはっきりと見えるのはかげ沼の辺りになります。当然磐梯山をより大きく見るには北に向かう必要があります。かげ沼との関連性・平地が続き見晴らしが良い等から矢吹の大池から鏡石の久来石(きゅうらいし)近辺の景色ではないかと思っています。かげ沼の場所については諸説があります。それが広い地域を指すとしても、この辺りには数多くの大小の沼が点在している地域でもありますので少なくてもこの近辺が妥当かと思っています。因みに白河から矢吹の間は、山があって芭蕉が書き残すほど見る事は出来ません(奥の細道のこの部分に創作があったら別ですが)。
A 以上の事からこの記述は、白河で阿武隈川を渡る→矢吹・鏡石近辺での山なみ→鏡石のかげ沼→須賀川への事を書いたのであろうと思います。矢吹での宿泊については奥の細道には記述がありません、曽良の旅日記に記録が残るのみです。
“かくして越行(こえゆく)まゝに、あぶくま川を渡る”の部分について、俳句の知識の乏しい私は阿武隈川を渡るたびに、何故阿武隈川の記述があるのかと言う謎にとらわれてしまっています。
奥の細道を世に出すまでに、旅で書き連ねた文章を推敲に推敲を重ねて、多くをそぎ落としているに違いありません。削り落としそぎ落とし一語に100の思いを込めた文章であろうと思うのです。その折には芭蕉の文学的的企みが込められていることは当然のことだと思います。そぎ落とした奥の細道に何の変哲もない阿武隈川を書き残した事が極めて不思議な気がしているのです。多分、識者の方が見れば笑止な事でしょうがただ流れる阿武隈川を渡るたび(日光・大谷川が合流する鬼怒川・大渡りと対比して)にその思いがするのです。
芭蕉にとって奥州への一つ目の心の垣根が隔てる山なみであり、やっとそれを越えて目にした阿武隈川は奥州への最後の垣根、向こう岸だったのでと言うの事なのでしょうか。利根川(鬼怒川)も那珂川もその記述が奥の細道には見られません。特に、芭蕉が日光から那須野が原へ向かう日光北街道の鬼怒川(←写真)の強い流れと変化に富んだ景色は阿武隈川の非ではありません。そして大渡りは(そこで越えたか少なくてもかすめて通るのです)、芭蕉が日光で訪れた大谷(だいや)川との合流点にあたり、大河の趣の強いところです。その様子を知るだけに、推敲を重ねた奥の細道に変哲もな阿武隈川を選択し、鬼怒川の記述が無い事がとても不思議な気がしています。歌枕の地であったからの記載なのでしょうか。*@岩波書店・奥の細道(萩原恭男校注)に、江戸時代の奥の細道解説書(蓑笠庵利一)に、新古今集(1201〜1216)のあぶくまがわの古歌が載っている事を書いています。A講談社学術文庫・おくのほそ道全注釈(久富哲雄)にあぶくまがわが歌枕であると記載されていました。
*この写真は鬼怒川の大渡(おおわたり)です。手前左上に芭蕉が日光で訪れた、裏見の滝・含満が淵の大谷(だいや)川が合流してきます。つまり誰でも何らかの思いを抱くであろう、神域から流れ下った大谷川終焉の地になるのです。少し右に現在の大渡橋(おおわたりばし)があります。
芭蕉が白河の関で旅心が定まったと述べますが、それは自らに言い聞かせた覚悟のような気がするのです。旗宿で一夜を過ごし白河城下を歩き、この阿武隈川を越えて本当に引き返せない場所、まさに彼岸に来たと、覚悟が実感となりここで本当に心を定めたのではないかとかんしているのです。阿武隈川は芭蕉にとってそういう川ではなかったのでしょうか。
続いて雄大な山の連なりを記してこれからたどる未知の奥州路への旅の困難さを強調しているように私には思えるのです。この地から三春の地を語るのは妥当ですが、未だ見ぬ相馬の地(それこそ三春の山なみが遮る更に先です)は一緒に語るには余りも遠すぎる気がするのです。江戸の風が感じられる地から隔たる異なる場所に来たという事を強調して、これからの物語の山場を,企てたように思うのです。*この部分の江戸時代の解説書では”めいしょにてはなし”と書いています。芭蕉が単に名所巡りを企ててその紀行文を書いたわけではないのですから、芭蕉が何故そんな変哲もない場所を書いたかと言う心持を忖度してこその解説書ではないかと感じてしまいました。
変哲も無くただ流れる阿武隈川を渡りながら何時も抱く疑問をこう納得させています。ただ、一方でとんでもない思い違いをしているかも知れないという恐れもいただいて居るのです。これは貧弱な知識しか有しない単なる一読者が、物語のあれこれにいろいろな想像を楽しんでいるということでご容赦ください。間違いが分かり次第訂正をいたしたいと思います。