奥の細道をたずねて会津根の細道D田村神社
元禄二年(1689年) 

芭蕉・曽良須賀川滞在表

旧暦
場所
新暦
4月29日 須賀川を馬で発ち乙字ケ滝へ向かう。阿武隈川にそって田村神社に向かう。郡山宿。
6月16日

 

芭蕉の当日の行程は次のようなものと考えられています。須賀川本町等窮宅→六軒→前田川→田中の渡し→石河の滝(乙字ケ滝)→小作田→八流の滝→芭蕉の辻→大渋沢→湯の川→岩作→守山・田村神社「大元明王(だいけんみょうおう)」→金屋の渡し→日出山→郡山 ↑上写真:田村神社本殿。

田村神社住所:郡山市田村町山中本郷135

 
ご存知のように石河の滝から郡山・日出山宿までについては曽良の記録があるだけです。石川の滝の渡渉が増水で叶わなかったのですが、それが滝の上流なのか下流なのか、田中の渡しは何処だったのかの疑問を解きたくて四度訪れてみました。須賀川からの芭蕉の道程を尋ねる人は少なくないようで、須賀川市の芭蕉記念館では地図などが用意されています。私の受けたレクチャーや現地に立って見て、多くの地が区画整理や道路改修で消えてしまっているようです。また、300年を経て実際に辿った道がどこかは、長い歴史の霧の中に沈んでしまっているように感じました。

曽良の記録に残る地名だけが私達に残された記録の定点です。それ以外はそうではなかろうかと言う物語の一部と考えるほうが良いように思います。芭蕉が通ったのではないかと、各々が持つ知識の断片にあれこれ推理を働かせながらのミステリーの旅も楽しいものです。私も多くの人々と同じ思いを抱きながら、須賀川から芭蕉の道と思われる跡を辿って見たいと思います。尚、車での旅だとすると、辿る道は狭く急カーブも多くかなり難儀する場合があるかもしれません。芭蕉の道を探してつごう四度も訪れております。C乙字が滝のページは芭蕉の通った六軒道ではなく118号線から訪れたものを記載しています。D田村神社を書くために等窮旧宅跡から六軒道を通って乙字が滝、男滝橋を再訪しています。2008.05.20/06.24/07.07/08.04

曽良旅日記・四月二十九日(新暦6月16日)
当日の大きな目的は石河の滝と田村神社(大元明王)の訪問であったと推測します。北行する奥の細道の旅に逆らって5キロほど南に下り(北に又戻ることを考えればおおよそ10キロ)石河の滝を訪れたのは須賀川の人々の薦めと芭蕉の旅心がなせる事だったのでしょうか。須賀川での長い逗留が、芭蕉にこれからの旅に対する心のゆとりを生んだように思えます。
芭蕉の足跡地図(須賀川等窮旧宅から小塩江まで)

Sの小塩江中学を右折すると後は道は真っ直ぐに49号線・守山に出ますので地図へ記入しておりません。随所のマークをクリックするとその個所の地図が出てきますのでご参照下さい。地図の番号や青文字部分をクリックすると説明個所に移動します。

赤い線は芭蕉が通ったと考えられる道を表しています。何度も迷いましたが、車でその跡を探しながら辿って見ました。尚、赤の破線は田中の渡しから芭蕉が石河の滝を訪れた道と思われる行程を表しています。

各説明にもあるように、多くは区画整理などで道が変わってしまっています。通った場所を確定することが今では困難です。手がかりは曽良の旅日記に書かれた場所だけです。以上の事から、芭蕉の通ったと思われる場所を、何度かは掠めた程度になるかもしれません。私にはそれでも十分芭蕉との心の交流が出来たと感じています。須賀川芭蕉記念館で頂いた地図とうかがった話を参考にして辿って見ました。

須賀川本町等窮宅→六軒→前田川→田中の渡し
@芭蕉記念館から等窮旧宅跡のNTTの通りに出て、右に向かいます。南町郵便局がある大町交差点を左折します。 A大町交差点を曲がってすぐ左からぶつかる道があります。左に笠間稲荷、すぐに道は右にカーブ。右に六軒団地。 B六軒道は明治時代に新しい道路が出来ました。今の道より西寄りにあった旧道は、現在では詳細が不明です。直進すると県道との交差点。
C更に直進すると118号との交差点。右に曲がれば10分程で直接石河の滝(乙字が滝)に出ます。左牡丹園。「田中の渡し跡」へは直進します。 D118号線を直進すると「前田川」の松並木。残る松は僅かですが昔の道の面影が残り芭蕉の姿が眼に浮かぶ風景です。 Eどこかで道を間違えて小作橋に出てしまい、川沿いに戻って「男滝橋」に出る。乙字が滝は上流、写真の左になります。
男滝橋「田中の渡し跡」
男滝橋は車の通りも少ない。しばし馬に乗った芭蕉の旅を思いました。阿武隈川を見下ろすと芭蕉一行の足跡が眼に浮かんできます。 F男滝橋から上流の男滝を望む。更に上流に乙字が滝。田中の渡しはこの近辺であったのでしょう。芭蕉一行は此処から乙字ケ滝(石河の滝)を目指して2〜3キロ(往復で4〜6)遡ります。等窮旧宅跡からなら、田村神社直行よりおよそ10キロ強程の遠回りになるでしょうか。 阿武隈川の右岸、田中の渡しの辺りと思われる。一面は河川敷の田圃。乙字が滝への往復はかなりの道程になります。滝の見物をいれれば、一時は掛かったのではないでしょうか。
小作田へ
男滝橋を渡ると500メートルほどで水郡線に出る。芭蕉の旅は水郡線に導かれて辿る旅でもありました。 G水郡線の踏み切り。小作田方面と田中(田中の渡しの名が由来する)方面に道は分かれる。車では踏み切りを越えてすぐ崖の見える小作田方面(川東駅方面)に左折する。
車では踏み切りを渡って左に曲がる。4たび訪れましたが、電車が通っていたのを見たことがありません。 曲がり角は崖があります。この辺りの景色が何か常ならざる印象を与えてくれます。電車の通らない踏切と言い、私の旅心を刺激してくれる景色です。 H須賀川の芭蕉記念館の地図では田中に向かって200メートルほど進んで左に山道に分け入っている旧道があるようなので諏訪神社まで入ってみる。
市野関
旧道を探して集落に入ってみるが道が見つからない。丁度郵便局の人が来たので地図を見てもらうがこの道は無いとの事、踏切まで戻る。 水郡線の踏切から川東駅・小作田方面に向かう。道は左に曲がりながら火の見櫓が見えてくる、左に市野関公民館。この蔵の有る家の角を右に山越えをしようとするが最終的に元の道に戻ってしまう。 I火の見やぐらと蔵のある家から200メートルほど、生垣の先に立派な石垣の家が見えます。その角(矢印地点)を右に曲がり坂道を登る。ここは市野関の集落と思われます。
J登りきると陸橋の下に出ます。それをくぐって坂道を小作田へと下ります。 K坂を下りだすと左に大福寺、小作田の集落は近い。 大福寺の先の集落の交差点に石仏。二十三夜が見られる。
小作田
小作田の集落に入る。「小作田村と云う馬次あり」と曽良が記しています。 L進むと県道、母畑・須賀川線との交差点。標識には直進する道の印が無いが直進する。 直進すると、車のすれ違いが出来ない程の狭い道となり行き止まりかと不安になる。
M直ぐ危なっかしい水郡線の踏み切り。向うは阿武隈川の堤防です。踏み切りを注意して渡ります。 取上橋から右手に取上川に掛かる水郡線の鉄橋を望む。更に直進。進行方向の左は阿武隈川の土手になります。 N100メートルほどで普通車直進出来ないという標識。芭蕉達の道は直進(地図のNからPへ)の可能性が高いようです。危ないので右折しました。
O右折すると直ぐに牛舎が出てきて、小さな水郡線の踏み切りを渡ります。 踏み切りの道を直進すると、急な坂の上で大きな道にぶつかります。左折し八流の滝へと向かいます。 P左折して300メートルほどで水郡線の高架に出ます。下を通り過ぎると八流の滝。芭蕉の道を思われるものは高架の先で左から合流します。
八流の滝
この看板は「須賀川市教育委員会」が建てた木製の説明版です。木製の為に文字が薄れて一部判読が難しいものがあります。須賀川の女流俳人・市原多代女(たよめ)の句「眼に散て 向ひかねけり 滝の月」は一部判読が難しかったので間違っているかもしれません。

Q高架を潜ってすぐに道路右に八流(はちる)の滝の標識。細い道を車で入るのは多少危険です。地元の人の邪魔にもなります。この標識の辺りに駐車して5分ほど歩いたほうが無難です。滝名の由来は流れが八つに分かれて落ちているからと言われています。芭蕉がこの地の訪れた話はかなり疑問のようですが、真実は分かりません。

高さが8メートルほどの綺麗な滝です。辺りは田圃、その中を流れる川の上流にこのような滝がある不思議な空間です。この滝に沿って古い道が芭蕉の辻の先まで通じています。冬には時として氷結するそうです。
 R八流の滝から直進すると急カーブを切りながら大きな道(雲水峰江持線)に出ます。左に向かえば須賀川方面です。右に曲がり、坂道を登ると芭蕉の辻。道路右側に駐車場があります。右から八流の滝からの網の輪古道が、この道を横切って左へと通じています。芭蕉はこの古道を通ったと言われています(事実は不明なようです)。

私達が訪れる時に通る、車の道である「雲水峰江持線」と「網の輪古道」の交差する場所が「芭蕉の辻」と呼ばれている場所です。史実であるかどうかは今では分からないようです。

芭蕉の辻を過ぎて坂道を下ると前方に水郡線の高架、右に小塩江郵便局の交差点が出てきます。高架の手前を左折します。 小塩江郵便局の交差点から僅かで「雲水峰江持線」はこのような分岐点に出ます。ここは「江持」方面に左折です。
S左折と同時に右に小塩江支所の建物が見えます。その先の小塩江中学の標識を右折します。他人の庭に入っていくような入口です。
293号線「湯の川」の交差点。左角に小さな商店があります。近所で採れるのか桃が信じれらない程の安価で売られていました。そこを更に直進すると「岩作(がんざく)」、会津方面に向かう国道49号線にぶつかります。 岩作(がんざく)で49号線に出たら左折しておよそ500メートルほどで「守山東入口」の信号。左折して守山に入ります。曽良の日記に「守山宿と云う馬次(馬の乗り継ぎ所・宿駅)」と書かれています。 守山の町並み。真っ直ぐ進むと49号線にぶつかります。その手前で小川を渡りますが、そこから左に細い道を入ると田村神社の駐車場があります。道路標識に守山中山(さんちゅう)とあります。
田村神社「大元明王(だいけんみょうおう)

木々で覆われた鎮守の森の中にある風格と威厳をもった大きな神社です。急で長い石段を登ると山門でしょうか、両脇に躍動的な姿の仁王像を従えた建物があります。連なるように舞台と思われる建物の中をくぐります。建物の間から本殿が見えます。森が保つ静寂の空間にどっしり建っている本殿は、説明版によれば芭蕉の時代とほぼ同じ状態を保っているようです。芭蕉の訪れた時の情景を頭に浮かべながらお参りをしました。

この入口の建物の中心に太鼓が下がっていました。田村神社では釣鐘ではなくて太鼓なのでしょうか。横に棒が置かれていたので何度か叩いてみました。人っ子一人居ない静寂な神社の境内ににぶい音が広がりました。
天和(てんな・1681〜1683)から元禄(1688〜1703)の間、将軍綱吉の時代、この地が幕府御領(直轄地)として、岩城から須賀川にいたる一帯を監視していたようです。

この灯篭はその折の延宝八年の検地終了の報謝として建てられたと説明版にはあります。 元禄二年(1689年)にこの大元明王(現・田村神社)を訪れた芭蕉もこの石灯籠を目にした事になるのでしょうか。1680年に検地が終了したとありますから、まだ新しいこの石灯籠を目にした可能性が高いと思われます。芭蕉が見、芭蕉を見たこのような歴史的遺物に接することは、その足跡を実感することが出来る大変嬉しい邂逅です。

曽良の文に「守山までは乍単(乍単斎・相楽等窮のこと)より馬にて送らる。昼飯を調(ととの)えてそえられる」と書かれています。須賀川や守山の有力者達のお陰か、芭蕉達への人々の歓待振りが分かります。当地の人々の芭蕉への師事する気持の表れでもありましょうか。江戸から離れた場所でも、当時はかなりの人々が文芸に親しんだ様子がうかがわれます。

守山山中(もりやまさんちゅう)交差点から49号線にでます。郡山を目指します。近づくほどに車が混雑してきて、内省する静かな歴史の旅から喧騒の現代に引き戻された気がします。左写真・阿武隈川の金山橋を渡る。上流にはかつて「金屋の渡し」があったのですが、今回はここで旅を終わる事にします。芭蕉は金屋の渡しから対岸の日出山に出て、この日は郡山に宿泊しています。車で道を探し探しではあっても、一日の行程として長い道のりでした。馬と二本の足で歩いた芭蕉一行にとっても十分歩いたと実感できる一日ではなかったでしょうか。
芭蕉はこれから更に北に向かいます。私は慣れ親しんだ住む村と街の近くの芭蕉の跡を辿って見ようと思っています。一旦街のそばの芭蕉の足跡を探すべく南に向かいたいと思っている所です。
 
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9/21/2008
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