奥の細道をたずねて関の細道@境の明神 曽良・旅日記・白河の関の章
 

芭蕉と曽良は国境いの長い上り坂を登りきり、古の歌人達の想いに満ち溢れた陸奥への入り口に立ちました。曽良は野に咲く白いウツギ(背中に差したか、髪に差したか)で古の歌人達へ衣冠を正したのです。この辺りには春の山吹・初夏のうつぎは多く自生しています。高原の白河は江戸より20日程季節が遅れています。いまだ野山には花が咲き鳥が歌う春の盛りです。

 
卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆるここちぞする。2008.06.23
芭蕉が訪れた丁度その頃に近い6月23日、その時の奥の細道はどんな様子だったのかを知りたくなって白河を歩いて見ました。既に田には稲が植えられ水が張られていました。山々の斜面は白い花々に満ちていました。自然の花の色は黄色から春が始まり、混色になりやがて白に変わっていきます。

私にはその名前を知るものはありませんが、高原の冷気に晒されたとりどりの白花は緑の森の中で一際目立っています。まさに青くさえ感じる雪の白さのように”雪にもこゆるここち”の満開の白いうつぎ(卯の花)を白河の山々で目にした一日です。これが芭蕉の見た景色なのでしょう。野生のうつぎはその数が多く、坂道のあちらこちらに無造作に咲いています。今まで見向きもしなかった地味なうつぎが今では私にとって大変好ましい木として目に留まるようになりました。

この辺りでは地境に野生のうつぎを植える慣わしがあったそうです。そしてこの白いウツギは”ヒメウツギ”と言われるもので幾らでも増えるために芽を見つけては雑草と一緒に抜き取るのだと聞きました。そうであれば、自然がもっと残っていた芭蕉の頃は現在より白河の関の近辺には多くの白いヒメウツギの群生が見られたと思います。更に、春の黄色の花の時期から、この季節は白花が目立つ時期になるのです。同じ季節に白河の地を訪れて、芭蕉が書き残すほどの”雪にもこゆるここち”と言う白花への強い印象を私も共有することが出来たように感じたのです。心が満たされた卯の花月(数日の遅れをご容赦ください)の旅でした。うつぎの項は2008.06.23

元禄二年(1689年) 芭蕉・曽良白河滞在表
旧暦
新暦
場所
4月20日
6月7日
朝8時に那須湯本を出立。芦野の遊行柳を見、境の明神から白河の関に出る。旗宿に泊まる。芦野に立ち寄りながら、一日で歩いたのです。
4月21日
6月8日
白河の古関を探す。関山・満願寺に登り参拝、後、白河城下の中町・左五左衛門に立ち寄る。矢吹に泊まる。
那須町・境の明神
那須側の境の明神は綺麗に整っていました。駐車場は那須側にしかありません。
国境に二つの社を創建するのは古の習いです。那須側の境の明神と白河の明神は敷地を接するように並んでいます。旅人には一つだけでも心強いのに、二つ並んでいれば神々の大きな庇護を感じたことでしょう。社は精神的な支えのみならず、旅人が雨風を避ける非難小屋の役目も担っていた事でしょう。

白河側の境の明神から芭蕉が登って来た遊行柳方面を望む。緩やかな登り道が続いています。駐車場は那須側に下がり始める辺りの右側にあります。多くの古の歌人達が憧れ、芭蕉も憧れた其の地にいよいよ足を踏み入れたのです。越えて来た道は過去、奥州への道は未来です。

那須側の玉津島明神境内に建つ、境の明神説明板。絵図にはこのあたりを境の明神村と呼んでいます。

白河・境の明神

芭蕉が強く意識した奥州への入り口、白河側の社は当時松平忠平15万石(家中騒動の為10万石に減石)の城下町。今も威厳と風格を保っています。社は二段構えになっています。手前に和算の算額を飾った社があり、最奥に本殿があります。左には句碑が立ち並んでいます。虚実織り交ぜた物語の”奥の細道”では、白河の関の印象を尋ねられた折に”風流のはじめや奥の田植えうた”と詠んでいますので、これはこの地の俳句と言ってもよいのではないでしょうか。

和算の算額。江戸時代、和算の問題が解けた礼や、和算の問題を出題するために奉納された絵馬。当時日本の和算の水準は極めて高く、関孝和は芭蕉と同時代の巨人です。この算額には三春藩士の名がありますが、再生したものでしょうか。2008.3.2

白河側の説明(PDF)板に載っていた文政10年(1827年)の絵です。能因法師と芭蕉の名が見えます。那須側も白河側も自らの社を玉津島明神と称しているのが分かります。こう称する時には、白河側から見ると那須側が住吉明神となり外を護る男神と意識されるようです。那須側から見た時も同じ意識になります。共に内なる神をより大切に奉ると言う事でしょうか。

白河・境の明神境内の”おくのほそ道”案内板
境の明神にある地図に加筆しました。太い赤線(本道)が芭蕉の通った道だと地元では考えているようです。南湖の右にクランク状の細い道がありますが、芭蕉が城下に入って奥州街道を通り繁華街の中町・左五左衛門をたずねた事を表しています。地図のオレンジで囲まれた場所にリンクが張られています、クリックしてください(クリッカブル・マップ)。

もう一つの白河の関

白河の境の明神の反対側に建つ大きな白河二所関址の石碑です。松平定信がこの境の明神より東側・東山道に白河古関の址を定めた後も今も所在地に幾つかの説がありますが、この大きな石碑はその一つの証しを主張しています。この地の関守の子孫の強い無念を感じました。

奥の細道をたどる事から外れますが、ほぼ地元に住む者の大まかな印象を記してみたいと思います。道には馴染んでいますが、歴史に深い知識があるわけではありませんので間違いがあるかもしれません、気づき次第訂正いたします。律令時代の白河・矢吹地域の行政の中心は当時の国道にあたる東山道に連なる(脇道かもしれません)借宿近辺にあったようです。7〜8世紀に東山道に沿った今の白河・関の公園近辺に、所謂、律令時代の白河の古関があったといわれています。近年の発掘調査

白河結城氏が1250年に、借宿より西に白川城(搦目城(からめじょう)を築いたことから、町の中心が少し西に移動したのではないでしょうか。因みに1340年小峰城が出来ると更に西へと移動します。室町時代は、ほぼ通して幕府の力と地方の地頭達との力のバランスの上に成り立っていたようです。自らの力で領土を守る為に、白坂道のこの明神の場所に白河結城氏の関所(当時既に廃棄されていたと言う大和朝廷の古い関ではない)を構えたと言う事ではないでしょうか。又は、脇道が縦横に走る東山道、この白坂道にも古い関があったと言っているのかも知れません。

境の明神句碑群
大伴大江丸句碑

能因にくさめさせたる秋はここ

ここに藤沢周平の”一茶”ゆかりの名前を見つけて飛び上がるほど驚きました。読者ならご存知のように、一茶の江戸での庇護者が夏目成美(せいび)なら、大阪での友はこの大江丸・大和屋善兵衛です。京・大阪・江戸でも名高い大きな飛脚問屋の主。蓼太(りょうた)門人。軽妙・洒脱な句風は、一茶に影響を与えました。江戸店での通称は嶋屋佐右衛門。1766年松島に出かけていますのでその折にでも白河に立ち寄ったのでしょうか。藤沢作品の愛読者にとっては、この句碑は思いもかけない出会いになるのではないでしょうか。

白河側の境の明神左手には、多くの歌碑が林立しています。芭蕉の旅物語”奥の細道”をたどる私の旅には関係のないもののようですので多くを省きました。この大伴大江丸の句碑だけは愛読する”一茶”に係わりがあるので省きがたく、芭蕉には係わりがありませんが掲載いたしました。素人の知識なので間違っている場合もあります。

芭蕉句碑は大きな天然石に彫られていて文字が判然としません。風流の初めや奥の田植へうた

ここから北に位置する須賀川の相良等躬(さがらとうきゅう)宅で、白河の関を越えた印象を聞かれて、美しい風景に魂を奪われ古人の故事・歌を思いながら感動ではらわたがちぎれるほどだったと答えています。句を詠む余裕がない程だったと言って、奥州に入って初めて目にした田植えと田植歌に感動して詠んだというこの俳句を披露しています。

奥州街道を右に、今夜の宿をとる旗宿に曲がると田圃が見えたことでしょう。ただ、私の予想では既に午後3時〜5時にはなっていたと思います(早寝早起きが原則の時代、はたして田植えをやっていたかどうか。翌日の白河の関から矢吹の間の事かも知れません)。もっとも奥の細道は、物語ですので、たとえそうであろうとリアルな感動が浮かんでくれば良いことですが。私には十分、そよぐ風までも含んだその情景が浮かんできました。

白河の境の明神を上から撮影しました。前方の屋根の前が、芭蕉と曽良が越えた奥州街道です。石灯籠の右側に芭蕉や大江丸の句碑が並んでいます。左が白河方面、右が遊行柳方面です。

奥州への入口は小高い山なみの間に開けられた切通しを抜けていきます。2008.4.8

境の明神から白河の関へ
白坂方面に向かって下ると、右に自動販売機と駐車スペースのある場所があります。白坂から登って来た場合は、道路左に白河の関方面の標識があります。そこを右(白坂から登ってきた場合は左)に入ります。角には高さ30センチ程の“奥の細道”道しるべがあります。その道しるべは、途絶えることなく白河の関まで点々と続いていますので目印にしながら進んでください。曲がると直ぐ右に小さな池があります。右にチップを作る工場が現れて一つ目の登り坂が出てきます。

坂を下ると左カーブの二つ穴の分かれ道、その分岐点にも道しるべがあります、右を指し示しています。普段は意識せずに、左へ向かいますが自動車用の道のようです。右は初めて通りましたが、実感としては右の道が左の道より古いものに思えます。カーブの多いこと、狭いこと、山間の不便な場所にも集落があること、歩く道は高度を無駄に下げないようにして出来ていく事、奥州街道那須側の寄居からの道と合流することなどや走っている印象からも、この地元白河市の人々が選んで道しるべを付けた道が芭蕉の通った古い道だという印象を持ちました。これはかなりの頻度で白河の関近辺を車で走る者の印象を語っていますので事実とことなるかもしれません。一応別の峠を越えて寄居方面に行って見ました。

このような”おくのほそ道”の道しるべが白河の関まで点々と立っています(親切にも、呆れるほど沢山立っています)。これを辿れば、初めて訪れた方でも安心して芭蕉の道をたどることができます。白河の関までの案内標識も親切に完備しています。

A:二つ穴の分かれ道、芭蕉の道は右に入ります。分岐点右に道しるべ。

 D:右から、曽良も日記に書いた、那須の寄居からの山越えの道が合流します。関へは左です。右に折れて、曽良が書き残した那須側・寄居からの道の峠を越えてみました。

C:これは白河から峠を下った那須側・寄居への道です。集落の密集度や道の状態から判断して、この国境の道は東山道から石川街道・棚倉街道へ出る場合便利で多用されたと言う印象をうけました。芭蕉が奥州街道から境の明神を越え、旗宿へ向かったと思われる道は東西の道です。関に出るにはこの寄居からの道よりは距離的に長くなります。曽良がこの道を知っていた事や、東西の上和平(わだいら)の道との一体感から考えても、芭蕉は地図の矢印の道を通った可能性が高いのではと感じました。

B:このような狭い道が集落を縫って続きます。家々の戸口を訪ねるように道は曲がりくねっています。

E:旗宿の手前で杜川を渡ります。関守橋の後ろが旗宿です。東山道に突き当たります。正面が白河神社、芭蕉が探した古関の跡です。

(6月の白河)

芭蕉が訪れた6月初旬の白河近辺は自然が最も瑞々しく輝いている時です。柔らかい若葉の薄緑(季節は終わりつつありますが)、木漏れ日も優しげです。田んぼには水が張られ小鳥のさえずりが耳を和ませてくれます。誰でも簡単に感動出来る紅葉の季節でなくて良かったのではないでしょうか。強い感動はその波が引くのも早いものです。若葉の季節は美しさを一目で感じるものではありません。あくまでも柔らかく密やかに心にしみ込んできます。その満たされた気分は徐々に膨れて長く持続するのです。自然の奥を感じ取る芭蕉には最適な季節の訪問ではなかったでしょうか。物語として奥の細道を読んでいる私の勝手な想像です、ただ私は自分が有する印象と共鳴させて芭蕉の心を共有したいと思っています。

”白河の関にかかりて、旅心さだまりぬ”と述べる芭蕉の心持に私は少し共感を覚えます。奥州に向かう道は奥深く続く南北の道、開明な海は山の彼方になります。先に海が待っている東西の道とは違います。奥羽山脈の森に沿って暫く真っ直ぐ進む以外ありません。信州の山並みはスカイラインが天を切り裂いてすっきりと聳えています。奥州の山なみは稜線が木々に覆われてぼやけています。生い茂る森の中に道は消えそうに思えるでしょう。数え切れないほど街とこの辺りの村とを往復していても、其の都度長い坂を登り森を越えて冷気の支配する高原の町に入って行くたびに僅かな、気づかない事もあるほどの、緊張を感じています。芭蕉も、ここまで来たら惟ひたすら像潟(きさかた)まで後ろも見ずに進み通す以外ありません(もっと北に進みたかったようですが)。境の明神から旗宿の今宵の宿までは緩やかに続く下り道です。日暮れ前には芭蕉と曽良も宿に着ける事でしょう。関の細道A白河の関へ続く。

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9/19/2008
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南湖