白河の古関について
芭蕉と曽良は1689年新暦の6月8日、前夜の宿・旗宿で白河の古関跡を探していますが、確たる場所がみつからなかったようです。古人たちとの心の交流を思う芭蕉はその足跡に立つ事を強く願ったのではないかと思っています。私が芭蕉の足跡にこだわるように(全くの的外れかもしれませんが)。多分、くちかけていた白河神社を訪れているのではないかと思っています。白川神社の巨大な杉を見上げていると、芭蕉の頃でも森の中でかなり目立つ大きさではなかったかと思っているのです。

松平定信がこの地を『白河の古関跡』と確定したのは、芭蕉達が訪れてから100年以上たった1800年の事になります。近来の発掘調査からこの地が白河の古関跡である合理的な遺物が出土しているという案内板が白川神社の近くに2箇所建てられています。2箇所の説明版の文章を書き出しました。写真の画像はそれら説明板のものを写したものです。

説明版@
説明版A
国指定史跡白河関跡国指定史跡白河関跡

白河関は、古くよりみちのくの関門として歴史にその名を刻み、また文学の世界では歌枕として数多くの古歌に詠まれた場所である。関の位置については久しく不明であったが、江戸時代後期、時の白河藩主松平定信の考証によリ、この地が白河関跡であると断定され、寛政十ニ年(一八〇〇)に「古関蹟」の碑が建てられ、今日に至つている。

関が置かれた年代については不明であるが、廷暦十八年(七九九)、の太政官符には「白河?」の名が認められることや歴史的な背景からみて九九)、承和=年(八Ξ五)、大化の改新以後の七・八世紀頃には存在していたものと考えられる。昭和Ξ十四年から三十八年までに実施された発掘調査では、竪穴住居跡や掘立柱建物跡、空堀、土塁、柵列などの中世にいたる遣構が発見され、縄文士器、土師器・須惠器.灰釉陶器、鉄製品などの古代から中世にいたる遺物が出土している。出土した土師器の中には、門、大室、□舟など墨書土器が見られる。

白河関の全体像についてはまだ未解明な点もあるが、現在も奥州三関の一つとして多くの人々に親しまれ、歴史のひとこまに触れることができる場となっている。また、春には藤やかたくりの花が咲き、訪れる人々の心を和ませている。

文部科学省 白河市教育委員会

Γ白河関跡(関の森遺跡)」の発掘謂査は、この地方古代の白河関跡であることを実証することを目的として実施されたものです。昭和34年方ら5ヶ年|こわたり、遺跡を大きくA・B・C地区と分けて行われた調査では、各地点から多くの遭構・遺物の存在ガ明らかとなりました。

『A地区』・空堀と土塁Iこ囲まれた平坦地を中心に調査が行われ、掘立柱建物跡、奈良・平安時代頃の土器が出土しました。

『B地区』・白河神社の社殿裏側の平坦地を中心に調査が行われ、竪穴住居跡、鍛冶跡、柵列ガ確認されました。遺物は、墨書土器や鉄製品が多く発見されています。       

『C地区』・遺跡の北側斜面部を中心に調査が行われ、柵列跡、門跡の可能性が考えられる柱穴が確認されています。

この5ケ年にわたる調査において発見された遺構・遺物特徴や遺跡のちっち条件などを総合的に考察した結果、この地が古代関跡の条件にかなうことガ明らかにされ、囲和41年に『白河関跡』として、国の史跡に指定されました。

曽良旅日記 曽良旅日記 境の明神 白河の関 追分の明神 関山 関の城下 二所の関 白河の関遺跡

関の細道G二所の石碑

9/16/2008

Copyright (C) Oct. 10,2007 Oozora.All Right Reserved.
 
本日-
昨日-
Provided: Since Oct.5,2008