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*関山への現時点で私の歩いた関山への道は@南側内松からの道A北側関辺からの最もポピュラーな道B関辺からの烏天狗道の3つがあります。今の私の印象では内松集落からの新しい登山口が最も芭蕉の道に近いものではないかと思っています。
*東北道・白河市内へは白河の関に戻ってから76号経由、登山道入口から『四斗蒔』で388号に出て白坂方面に向かうと76号に出る道が良いでしょう。
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元禄二年(1689年) 芭蕉・曽良白河滞在表
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旧暦
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新暦
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場所
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4月20日
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6月7日
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朝8時に那須湯本を出立。芦野の遊行柳を見、境の明神から白河の関に出る。旗宿に泊まる。 |
4月21緋 |
6月8日 |
白河の古関を探す。関山・満願寺に登り参拝、後、白河城下の中町・左五左衛門に立ち寄る。矢吹に泊まる。 |
関山の石碑には『梅雨の霧雨も辰の上刻、午前七時半頃にはあがり関の明神を参拝した後、風騒の二人は関山へ向かった』とあります。
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関山万願寺の石碑(左地図内の写真)によると芭蕉は旗宿を出た後、関山南側の内松(ないまつ)から稲荷社に出たと書かれています。そしてそこの古道から関山に登ったとのことです。私はこの話にびっくりしてしまいました。てっきり北側の関辺から登ったとばかり思っていたのです。この石碑を建立したのは地元の人々だけに古道の道筋には通じているに違いありません。私もその南側の道をたどりながら芭蕉の足跡を探ってみました。写真の関山入口2kmの道標は県道78号と280号の分岐点に建っています。偶然東山道から旗宿→関山とたどり頂上まで登って見つけた物語です(浅学な私が知らなかっただけかもしれません)。聞き知った史実をたどったわけではありません、それだけにこの文言に接しての興奮が強かったのです。*『境の明神』にある全体地図の赤線部分の一部になります。2008.09.29
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@このコースのスタートは白河の古関跡である『白河神社』巡りからです。神社の石段を降りてから白川の流れをたどりながら社川との合流点まで散策してみました。野道には名も知れない野草が花をつけています。田圃は黄金色、白河の元となったといわれる『白川』の流れは澄んでいます。社川との合流点から『東山道』にでます。そこは芭蕉が宿をとった旗宿の集落。道端に多くの石仏や石碑が立ち並んでいます。
A旗宿周辺の散策を終えてから『関山』を目指して県道・280号線を北東に道をとります。途中岩崎山普門寺と言う寺を見つけて立ち寄る。草むした石段の奥に隠れるようにしてある祈りの場所。訪れる人が果たしているのかを思うほどの草深い場所です。
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多分今では多くの古の道が消えてなくなっているとは思いますが、それでも私は関山石碑の新しい情報に浮き浮きしています。この物語を手がかりにたどった僅かな旅のあちらこちらで、私なりに芭蕉との心の交流を楽しんでみました。それは野草の乱れる田圃道であったり、白川の流れであったり・・・・まことに楽しい時間を過ごすことが出来ました。地図のオレンジ色の道を辿りました。
時折折り気のむくままに近所の奥の細道を尋ねる事がこのウエッブ・サイトの目的です。一部重複する部分があるかもしれません。たとえ同じ場所であっても訪れたこの時の心持と、新しい見聞を記したいと思ってはいます。
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これは『従二位の杉』言われる樹齢800年と言われる巨木です。芭蕉が訪れた300年前でも目立っていた事でしょう。芭蕉が見上げ、芭蕉を見た歴史上の証人です。
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白河神社の前に立つ大きな杉の木は落雷などで上部が枯れているようです。芭蕉と曽良が見上げたとしてもおかしくはないように思えます。
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旗宿と白河古関跡周辺の散策について
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車を白河の関跡前の駐車所に入れて古関周辺を歩いてみます。芭蕉が古関跡を捜し歩いたであろう一帯とかなり重なるのではないでしょうか。この駐車場は7台ほどしか停められません。混雑していた場合は200メートル程先の、関の公園の大駐車場に停める事になります。
白河の古関跡を巡った後に、A点の白川の橋を渡ってください。更に直ぐ下流B点に木橋がありますので対岸に渡ります。B点からD点まで(100mほどでしょうか)は田圃の畦道になります。農家の人の邪魔にならないように白川に沿って散策しながらD点に出ます。そこから境の明神の道に上がるとE点が見えます。D点から右に76号に向かうと交差点左に石仏が建っています。そこからバス停を目指します。20〜30分の散策です。
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A点:『白河』の名の由来といわれている『白川』は白河の関の東側を流れています。澄んでいますが極めて小さな流れです。これは県道76号線の白川に掛かる橋。
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B点:白河神社入口の前に6〜7台ほど止められる駐車場があります。脇を流れる『白川』を木橋で越えて左岸へ。
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C点:田圃の畦道を歩きます。畑は黄金色に輝いています。
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C点:畦道には野草が咲いています。
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C点:白川の流れです。1〜2メートルの細い流れの水が澄んでいます。松平定信を揶揄した『白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき』のまさに至る所清流が流れています(昔ほどではないにしろ)。
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D点:白川にかかる橋にでます。
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E点:白川がやがて社川(やしろがわ)に合流し、やがて阿武隈川に流れ込みます。古くからの河の名前かどうかは分かりませんが、古関を思わせる地名が少なくありません。
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D点:橋上から正面の白河古関跡方面を望みます。後方は白河境の明神の方向になります。車もほとんど通らない道を東山道に向かって進みます。この道が東山道(県道76号)にぶつかる左角に石仏・石塔が集められた広場あります。
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白河の古関前の小さな広場には沢山の石仏や石塔が集められています。こちらは二十三夜の月待塔でしょうか。残念ながら月待ち供養の風習は消え、今では石塔がその歴史を語るのみです。
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明和4年(1764年)の年号が刻まれた十九夜の月待ち供養の地蔵が建っています。
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この周辺にあった石仏・石碑がここに集められたように思えます。この辺りは古くからの馬の産地でもあり、馬頭観音が多く見られます。
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JR白河駅からの福島交通・白河の関前のバス停です。この後の小山が白河の関跡になります。バスは200メートル程先の次のバス停・白河の関公園が終点です。
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旗宿の散策を終えていよいよ関山に向かいます。私も幾度と無く白河の関を訪れていますが、直ぐに白河市内に道を戻るのでここから先は初めてです。『庄司戻しの桜』の先で76号は左すると白河方面、直進する道は280号となります。分岐点角に関山方面・新おくの細道の標識があります。分岐点からすぐの岩崎の集落の左側に岩崎山・普門寺の看板を見つける。もしかして芭蕉の立ち寄った場所かと思い左に曲がって突き当りまで田の中を進んでみました。普門寺は他人の家の庭を通って訪れるまことに不思議な精神世界、私には大変興味深い小さな社でした。大好きな俗の中の静かな精神世界です。
私には芭蕉の訪れた場所と言う印象は感じられなかったのですが、この道が関山へ向かう旧道ではないかと思ったのです。追々調べてみたい対象に出会える事が出来ました、このような楽しみを掘り出せる事は芭蕉の跡を尋ねる旅のお陰です。
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普門寺から県道280号方面を望みます。右が旗宿・白河の関方面です。私は280号に戻って左に折れます。 |
280号を、白河の関方面を背に暫く進むと右に杉林が出てきます。其の先で小川を渡る。 |
小川を渡ると左に消防団、右に郵便局があります。写真は消防団から後方・白河の関方向を見ています。 |
消防団の左に関山入口の標識が建っていますので左折して集落に入ります。 |
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ここで旗宿の西を流れ下ってきた社(やしろ)川を渡ります。柳橋の名前が見えます。
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暫く進むと石の標識が左に見えてきます。多分大正時代に建てられた『白川の関址に至る約一里』と書かれた石塔です。
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曲がりくねった道を進むと『内松』の標識があるD『五斗蒔』の分岐点に出ます。私は本道と思われる左に一度進んでみました。388号線に出て白坂方面に出てしまいました(何れはそれに合流しますが)。ここは右に向かいます。 |
これが『内松』の看板から右に出て曲がりくねった道、坂の上から振り返りました。この左に『村稲荷社』があります。里山があちらこちらに見えます。
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坂を上りきると二車線の道に出ます。この向こう側に車3〜4台ほどの駐車場があります。帰路はこれを左方向に向かいます。『四斗蒔』で『五斗蒔』からの288号に合流します。 |
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関山登山口にある『村社稲荷』、由緒のありそうな社です。これがはたして芭蕉が訪れた頃から続いている稲荷かどうかは分かりませんが、この辺りであることは間違いないと思われます。社殿に続く石段は大きな杉の木で囲まれています。もし芭蕉であれば社を素通りすることはなかろうと思いながら頭を垂れました。集落の人々の手入れが行き届いた様子がうかがわれます。それは古い歴史を重ねた社ではないかと推測させる理由でもありす。
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F内松集落関山登山口
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駐車場に車を置いて関山登山口と書かれた標識の辺りを歩いてみました。入口には幾つかの地蔵尊がありました。杉林の中に続く山道を覗いているうちに突然頂上まで行ってみようかと思いました。まるで芭蕉に手を引っ張られたような気がしています。前回登ったときは、反対側・北側の『関辺集落』からの道でもあり子供連れでゆっくりと散策する雰囲気でもなかったこともあります。芭蕉が登った南側・内松からの道だという事が私を後押ししたように思えるのです。そして何か芭蕉に引っ張られたように、すいと薄暗い山道を登りだしていました。
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内松関山登山口の入口です。右にお地蔵さんがいらっしゃいます。
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登山道は前夜の雨のせいで少し滑りますが、静寂が支配する林の中の一本道です。
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もくもくと登ると30分ほどで見慣れた関辺集落からの道に合わさります。
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石仏が立ち並んでいます。永い祈りの場所、はるか昔芭蕉も曽良と共にこの同じ地面を踏みしめたのです。人々の背負いきれないほどの祈りを受け止めてきた名も無き石工の作った石像は静寂の中にたたずんでいます。
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関山万願寺の石碑です。頂上近辺には永い信仰の歴史を物語遺物が沢山残されています。
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万願寺への登り道に古木が見えます。祈りの石仏が供えられていました。私には芭蕉を見下ろし、芭蕉が見上げた木ではなかろうかと思うのです。
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頂上近くで北側の関辺集落からの『烏天狗』登山口が合わさります。これはかなり急峻な道です。
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『神馬堂跡』治承4年(1180年)義経が登山、観音様に参拝祈願して神馬を奉納したと書かれています。 |
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この説明が正しければ、1689年この関山を訪れた芭蕉と曽良もこの鐘をついたかもしれません。私は二人が鐘を突く姿を想像してみました。勿論、最初に打ち鳴らすのは師の芭蕉でしょう、そして曽良が続きます。師弟は鐘の音に耳を澄ませたのではないでしょうか。私も無人の寺で何の遠慮も無かろうと力いっぱい撞木で鐘を打ちました。ゴ〜ンと言う重々しい音が山の頂上から四方の空に広がっていきました。
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芭蕉と曽良はこの最後の石段を登り関山満願寺に参拝したのです。私も彼らと同じ足跡をたどっていることを意識しながら石段を登りました。そして持っていった単行本の曽良の旅日記・関山の項を読み下しました。曽良の物語がにわかに立体的な姿で眼前に現れてきて、感動が深く心にしみこんできます。辺りはあくまでも静寂、全てが私一人の世界です。
ソレヨリ(*白河の古関跡)戻リテ関山(せきさん)へ参詣。行基菩薩ノ開基。聖武天皇ノ御願寺、正観音ノ由。成就山満願寺ト云。旗ノ宿ヨリ峰迄一里半、麓ヨリ峰迄十八丁。山門有。本堂有。奥ニ弘法大師・行基菩薩堂有。山門ト本堂ノ間、別当ノ寺有。真言宗也。
本堂参詣ノ比、少雨降ル。暫時止。
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この目印は富士山の方向を示しているものです。多分冬の晴天の日には見ることが出来るのでしょう。 |
関山満願寺は関山の618メートルの頂上にあります。辺りを遮るもののない素晴らしい見晴らしです。芭蕉と曽良も暫し頂上から四方の景色を眺めたことでしょう。通り過ぎてきた那須の山なみ、これから訪れる奥州の道を見ながら何を話し合ったのでしょうか。私も満願寺一回りしながら暫く頂上のあちらこちらから見晴らしを楽しみました。 |
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関山満願寺の石碑
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関山満願寺に建つ大きな石碑の文言に、奥の細道には浅学の私は大変驚きました。この石碑には曽良の旅日記の一文や場所の白河に関する俳句が書かれていますが、私の驚きは関山の登り道の部分にあります。以下に石碑の前半部分を書き出して見ました。
『漂泊の思いやまず』『春立る霞の空に白川の関こえんと、そヾろ神の物につきて心くるはせ道祖神のまねきにあひて取るもの手につかず』弟子の曽良を伴って、元禄二年、一六八九年、奥州に旅立った芭蕉は、四月二十日、陽暦なら六月七日、白河の地に立った。暮れ前から小雨模様であったこの夜は、関跡の旗宿に泊まった。
翌八日、梅雨の霧雨も辰の上刻、午前七時半頃にはあがり、関の明神を参拝した後、風騒の二人は関山へ向かった。
歌枕白河の関の所在地について、現地で戸惑いを感じた芭蕉は、関山に惹かれ、旗宿より北東三粁にある、南麓の内松部落を抜けて、稲荷社と『せき山』と刻んだ石の古道標のある地点より登った。
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幾ら600メートルの里山でも、道なき道を登ることは無理な話です。古の道に詳しい地元の方の『古道を登ったという』節は最も信頼性の高いものだと思うのです。関山の南側は東山道との関係からも納得できる話だと思います。だとすると、現在最も一般的な北側の関辺の道は当時はどうだったのかと言う疑問が沸いてきます。私は芭蕉の奥の細道を尋ねる旅で、何時も現地に立たないと分からない物語に次から次と接する喜びに出会っています。芭蕉の跡を辿る道は終わりが見えない道に見えるのです、そしてその事は私に途切れることのない楽しみを与えてくれるような予感がするのです。
芭蕉の関山への道についてはこの地を訪ねた折に順次調べてみたいと思ってます。そして誤りがあれば徐々に訂正いたしてまいりたいと思っています。私は関山を登った後、更に道を進んで『四斗蒔』で県道388号線に出ました。殆ど車の通らないこの道を白坂方面に進むと白河の関からの76号線にぶつかります。標識の『左白川の関・右南湖公園・直進白坂』に従い右南湖・市内方面へと道をとりました。*旗宿から関山満願寺への道は芭蕉が歩いた当時からはかなり変わっていると思います。幾つかの場所で多分芭蕉の足跡をかすめて通っているんだと思いながらの旅でした。
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11/6/2008 |
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本日-
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昨日-
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Provided: Since Oct.5,2008 |
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