奥の細道をたずねて那須の細道B遊行柳
 
又、清水ながるゝの柳(西行が歌に詠んだ)は蘆野(那須町のあしの)の里にありて田の畔(くろ・あぜ)に残る。此所の郡守戸部某の、此柳見せばやなど、おりおりにの給ひきこえ給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立寄侍(たちよりはべり)つれ。田一枚植て立去る柳かな

芭蕉の句碑:田一枚植えて立ち去る柳かな

遊行柳故事説明の石碑
遊行柳の歴史をお知りになりたい方は芭蕉石碑の傍に立っているこの石碑の画像をクリックしてください。遊行上人の伝承が詳しく書かれています。
@程々の知識の必要性
ここまで芭蕉の跡を注意深くたどってきました。ここに至り、最初何の知識も無しで良いと思ったし、又思わざるを得なかった浅学を後悔しだしました。芭蕉の奥の細道の心への焦点がぼけるほどの知識の穴に落ちることは望みませんが、相応の事を知りたくなってきたのです。それが芭蕉の心と旅する杖となりそうに思えてきたからです。
A浅学な理解
出来る限り簡単な記述に収めますが、この章以降には少しだけ芭蕉の旅の心の裏背景が出てきます。俳諧や芭蕉についての知識をお持ちの方から見ると誤解や誤りがあるかもしれません。昨日まではそれらに全く無知だった者が、芭蕉の心を感じることだけを思って調べそして歩いた記録だと言う事でなにとぞお許し下さい。
B遊行柳では田への水入れ
私が殺生石からたどり着いたとき、遊行柳の前の田圃の用水路には勢いよく水が流れていました。田に水を入れるには早すぎます。ゆかりの地に立てば、私の中の今の芭蕉への心が水の流れのように、あっというまに現在から過去に遠ざかって言ったように思いました。そして遊行柳の風景にあわせて、新たな芭蕉像が浮かび上がってきました。

 

 

 

奥州街道・国道294号線にある立派な休憩所から遊行柳を見ます。遊行柳は上の宮の参道の途中にあります。

遊行柳への入り口です。田んぼの畦道のような細い上の宮の参道の途中にあります。まさに芭蕉の言葉の通り遊行柳は”田の畔(くろ、あぜ)に残る”です。

石柱で囲まれた遊行柳、その横に傾くように寄り添って立つ芭蕉の句碑。上の宮の参道がこの部分だけ田圃側に張り出しています。 殺生石を朝8時にたって山道を含めて20キロ近く、既に午後1時か2時になっているのではないでしょうか。白河の関の旗宿までは更に25キロはあります。

遊行柳は田んぼの横にある何の変哲もない何代目かの柳の木です。西行への憧れが芭蕉をこの地に向かわせた力だと言われています。西行の歌にはただ”柳”となっていて、知識の浅い私にはそれが芭蕉をひきつけた”遊行柳”(曽良日記に遊行と書れている)になったことが頭の中でまとまりがつきませんでした。初代の遊行上人(一遍上人)より前に没している西行は当然遊行を知る由も無いのではと疑問が沸きます。

私の選んだ参考書・新潮社・井本農一”奥の細道を歩く”の中で『西行が実際にこの地に来て詠んだ歌ではないことから、詠んだ場所が存在することがおかしい。歌枕とはそういうもので、歌から場所や伝説が作られる』と述べられています(私の理解した概略です)。この記述は、私には極めて納得できる説(西行9歳時の歌が疑問ではあっても)だと思いました。

芭蕉句碑の横の説明板石碑と私の選んだ参考書を元に、初心者の私の理解する範囲で、出来事を時系列でまとめてみましたが間違っているかも知れません。分かり次第訂正を行ないます、知識の無い者が奥の細道への興味を深めていく過程だと言う事でお許し下さい。ご興味の有る方は説明板をクリック・拡大してご高覧ください。リンクはページ右上説明石碑の画像に張られています。クリックしてください。

@”清水流るる・・・”は西行(1118〜1190)が1127年鳥羽院で襖の絵を見て詠んだ。

A新古今和歌集(1201〜1216)に多くの西行の他の歌と共に”清水流るる・・”が入集される。

B時宗の宗祖・一遍上人(遊行上人・1239〜1289年没)に関する朽木柳の伝説が伝わっている。時宗では歴代の上人が各地へ旅しながらの布教活動を遊行(西行没後の言葉)と言うそうです。

C観世小次郎信光(1435〜1516)が西行の歌と一遍(遊行十四代・太空上人との話が混在していると思われる)の朽木柳の説話を元に謡曲”遊行柳”を作る。

D芭蕉は西行の歌(多分謡曲にも)に憧れてこの歌枕の地を1689年6月7日(新暦)に訪ねる。

遊行柳や多くの歌碑を含む史跡が冬枯れの田んぼの中にあります。狭い場所に、芭蕉、西行、蕪村等の歌碑や説明板が林立している不思議な景色です。上の宮の境内の一部です。
西行の歌碑:道の辺に 清水ながるる柳かげ しばしとてこそ立ちどまりつれ
     蕪村の句碑:柳散清水涸石慮々(柳散り清水涸れ石処々)1743年・蕪村28歳の俳句です。遊行柳を詠んだものです、このような状態の時代もあったのでしょう。
入り口から遊行柳方面を望む。団体客が来たらあふれそうになる狭い野道です。

田んぼと参道の境目に立つ遊行柳。観光客が来る頃、田んぼの持ち主はさぞ迷惑でしょう。

謡曲史跡保存会の解説です。謡曲(謡)の遊行柳誕生が説明されています。看板の画像をクリックしてください、拡大写真が開きます。
 
芭蕉の訪れた遊行柳の背景を、現地にあった幾つかの説明板を書き出し、そして少しだけ調べてみました。結果として、西行の遊行柳という話が下記のように私の最初の想像とは少し違うのではないか(間違った理解かもしれないと恐れていますが)と思えてきたのです。

最初に西行が”清水流るる・・・”を都で詠んだ、これは私の選んだ参考書の説です。西行の没後、時宗初代遊行上人・一遍か遊行十四代・太空上人かの朽木の柳の伝承が生まれ、それが西行の”清水流るる・・・”の歌とが繋がったということでしょうか。それを観世小次郎信光が歌謡に創作し、それに影響されて実際の遊行柳が出現(植えられたと言ってもよいでしょうか)したというように思えてきたのです。これは時宗の話を除けば多くが、参考書・新潮社・井本農一”奥の細道を歩くを読んだ後の私の推測ですが(私の理解が間違っているかもしれませんが)、大変合理的な説明に思えます。だからといって、リズムのある芭蕉の文章と透明感のある内容に対する私の好みには何の影響を与えるものではありません。芭蕉が西行の心に思い至ったように、私も幻の芭蕉を遊行柳の傍らに浮かび上がらせて思いをめぐらせる楽しい時を過ごせました。何はともあれ、遊行柳に感謝しなくてはなりません。

上之宮の大イチョウ

上の宮本殿は大イチョウに守られるように建っています。私も芭蕉が祈ったであろう社(当時イチョウは樹齢80年程)で手を合わせました。

 上之宮の本殿から参道の遊行柳を見る。鳥居の先の右側の木が遊行柳です。
樹齢400年の大イチョウ、この地を支配する圧倒的な力を感じます。説明が正しいとすると芭蕉が訪れた頃は80年ほどの樹齢だったことになります。遊行柳の地は上之宮の境内、ほぼ確実にここで旅の安全を祈願したと思います。ここにも、芭蕉を見下ろし、芭蕉が見上げた生命がありました。

殺生石から遊行柳へ)県道34号線を走っているつもりが途中から道を失ったようで、左に那珂川の支流余笹川が見えてきました。野焼きの煙が帯となってたなびき煙の中に赤い火が見えます。余笹川の直ぐ横を走るとすぐT字路のつきあたります。標識に従って左・白河に向かって余笹川をわたると奥州街道・国道294号線に出ます。

道は走りやすくなります。伊王野を過ぎて街路樹が柳になると目的の遊行柳はすぐ近くです。左側の道路わきに駐車場を備えた休憩所がありますのですぐ分かります。田圃の向こうに遊行柳が見えます。20年以上前に訪れたときの印象は、柳が極めて貧弱で一番奥の見事なイチョウの巨木が強く記憶に残っています。今はかなりきれいに整備されて、訪れる人が少なくない事が想像できます。

遊行柳の無料休憩所は月曜日が休み、がらがらの駐車場に車を止めて人影の無い遊行柳を訪ねてみる。冬の田圃の先に緑の塊が島のように突き出している。遊行柳は温泉(ゆぜん)神社・上の宮の境内の一部となっていると説明板に書かれてある。芭蕉の句碑は左の田圃側に傾いているように建っています。右には蕪村の句碑、沢山の石碑が立っている不思議な空間です。冬枯れの景色の中で、石の句碑の群れが、多くの歌人たちの思いの墳墓のように見えました。2008.3.2

遊行柳を後に、294号線を白河市方面に北上します。次の目的地は境の明神です。境までは道が登りになります。
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那須の細道D遊行柳

9/19/2008

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